6 希望と絶望と
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「・・・悪いが他の先生方には、お前と橋野で事情を説明しておいてくれるか」
病棟の廊下の隅で、亜弥に電話をしていた山田先生が言った。
「はい、わかりました。それで、どうですか、黒子君の容体は?」
「うん。まだ意識は戻らない。医者の話ではとにかく現状原因不明だ。高熱があって、感染症の疑いも考えられるからと、隔離されて今は面会謝絶だ。――と、いうことだから、これからお前らが来ても意味がない。今日は真っすぐ家へ帰れ」
「そうですか…。わかりました」
スマホ越しにくぐもった亜弥の声が、不安気に、静かな廊下に小さく響く。
面会時間もとうに終わり、閑散とした病棟の廊下のベンチに、美穂は一人でぽつんと座っている。
黒子が救急車でこの病院に搬送される際、美穂は同乗すると言ってきかなかった。仕方なく、養護教諭の新井先生と美穂が救急車で、紗和子と一樹は山田先生の手配したタクシーで病院へ向かった。
(私があの子、クーゲンドージに会った時・・・)
美穂は静かに目を閉じて、その時の様子を何とか思い出そうとする。
黒子の家で、夕飯をご馳走になった帰り道、途中まで送ってくれた黒子と別れた直後のことだった、と思う。そこまでは覚えている。
しかし、それがいつだったのか、その正確な日付はどうしても思い出せない。
――ねえ、お姉ちゃん、何か僕にオモシロイ噺をしておくれよ!
(あの時、後ろから声を掛けてきて、あの子は確かにそう言った)
振り返った美穂の眼に、紺地に白のボーダーシャツ、短パン、白いスニーカー。そして後ろ向きに被ったCap。薄笑いを浮かべた少年の姿が飛び込んできた。
(この子、もしかして・・・)
その時、なぜだか不意に、以前YouTubeで見た動画が頭に浮かんだ。
「あなた、誰?」訝しげに問い糾した。
――ねえ、何か僕にオモシロイ噺をしてよ
しかし、美穂の問いには答えることなく、少年は微笑みながらまた同じ言葉を繰り返した。
――仲代! 仲代!
「おい、仲代!」
自分を呼ぶ声に、ハッとして我に返った美穂が顔を上げた。心配そうな山田先生がこちらを覗き込んでいる。
「は、はい」
「大丈夫か、お前? ぼうっとして」
「大丈夫です…」
「黒子の保護者はまだか?」
「はい、もうすぐだと思います」
「確か、アイツの両親は今家に居ないって、言ってたよな?」
「はい。二年前におじさまが仕事の関係で北海道に転勤になって、おばさまもそれに合わせて引っ越して。今は神主のお爺さま達と一緒に」
「そうか、じゃあ、その神主のジーサン、ってのが来てくれるのか?」
「はい、そう言っていました…」
階段を上りながら、なにやら揉めている二人の声が聞こえてきた。
「だからぁ、スマホのチャージが足りなかったんだから、仕方ないでしょ!」
「そんなこと言って、いっつもそのまま返さねえじゃねえか!」
そのまま一樹の言葉を無視して階段を上り終えた紗和子は、すぐに一人で近くのベンチ座っている美穂を見つけると、抱えていた数本のペットボトルを目の前に差し出して勧めた。
「はい、仲代さん。好きなのどうぞ」
「あ、ありがとう」
何も考えられず、ぼうっとしたまま、何気に美穂はブラッドオレンジのジュースを手に取った。
「いいの、それで? 珍しいよね、それ。ほんとは私が飲もうかと思ったんだけど」
「あっ、じゃあ別のを・・・」
立ち上がり掛けた美穂が言い終わる前に、
「ああ、いいの、いいの」とニコッと笑って、紗和子は向こうで立ち話をしている二人の先生に駆け寄って行った。
「先生方もどうぞ、私のおごりです!」
「おう、そうか悪いな、中臣! 気が利くな」すぐさま山田先生が手を伸ばす。
「ありがとう、中臣さん。お金、後で私が出すね」新井先生が微笑む。
「いえいえ、大丈夫です。本当に」紗和子が笑顔で返した。
それを聞いて、急に不安になった一樹が言った。
「おい、ほんとにお前のおごりなんだろうな、ちゃんと明日、金返せよな!」
「わかってるよ、もう! ホント、ケチねえ」
「お前に言われたくねえわ」
「こういう時に彼女にお金出させるとか、野原くん、そんなんで、彼氏として恥ずかしくないの?」
「だ~~れが、彼女だ!」
「さぁ、誰でしょう~⁉」紗和子が斜め上を向いた。
「何言ってんだよ、今だってお前、一円も出してないだろが!」
「えっ、あっれ~、そうだっけ~?」
「大体お前に払う弁当代のせいで慢性的な金欠なんだぞ!」
「なあんのことかなぁ~。――あっ、そうだ先生、橋野先輩達と連絡取れましたかぁ」
言いながら、紗和子は山田先生たちの方へ歩み寄る。
「まったくもう」
『美穂、心配いらない。何があっても、――例え死んでも、絶対にお前を守ってみせる‼』
あの時、戦いの最中、恵はそう言ってくれた。
その言葉通り、恵は私を必死で守ってくれた。私が死にかけて、生き返った時も、あんなに喜んで、恥かしくなるくらいぎゅっと抱きしめてくれた。
(ああ、そうか…、あの時もう「嘘から出た真」は、――私の願いは叶っていたんだ…)
そう思いながら、受け取ったペットボトルを飲みもせず、美穂はただぼんやりとブラッドオレンジの、その名の通りの紅い色を見つめていた。
――そうだ!
ふと何を思ったのか、美穂は不意に立ち上がると、いきなり近くにいた一樹の腕を掴んだ。
「ちょっと一緒に来て!」
「えっ! なに?」
急なことに驚いた一樹が美穂の顔を見る。
改めて、美しく蒼白いその顔が、いつになく真剣なのに息を呑んだ。
「いいから、こっち来なさい‼」
そう言うと、美穂は一樹を廊下の隅まで引きずるように連れて行った。
「何だよ、急に…」不審げに一樹が美穂を見る。
「私に…、もう一度あんたのアレをちょうだい!」
「あん? アレ?」
首を傾げ、美穂の妙な言葉遣いに意味がわからず、一樹が間抜けな返事を返す。
「ほ、ほら、アレよ。あの時、私のカラダの中に…」
「なんの話?」
「あんたの『アレ』を私の身体の中に入れてくれたじゃない‼」
「おおい! なんか、その妙な言い方やめろ!」
「違う! だから、もう、あんたの血を寄越しなさい、って言ってんのよ!」
「はぁっ? なんだそれ。血を寄越せって、お前、吸血鬼か!」
「ふざけてないで早く寄越しなさい!」
「いや、いや、ふざけてんのはそっちだろ。無理だって、そんなの」
「し、仕方ないわね。わかった、ただとは言わないわよ。だったら、一回だけ。その・・・、あんたの言うこと、何でも聞いてあげるわよ」
美穂は少し眉を寄せ、俯き加減で恥かしそうに言った。
「な、なんでも? ・・・って、何だよ!」
「な、何でも、って言ったら、何でもよ…」
顔を赤らめながら美穂の声が小さくなる。
「仕方ないから、だからこの際、エッチな頼みでもなんでもよ!」
「え、エッチな頼みって⁉ 何だよ⁉」
「だからぁ、もうなんでもよ‼」
(ええ~‼ 仲代って、黙っていれば黒髪ロングの清楚な美人。そんな子に頼めるエッチなことって、なんだよぉ~‼)
「なにヤラシイ顔してんのよ‼」紗和子が横から一樹の耳を引っ張る。
「イテテテ…」
「まったくもう、ちょっと目を離したら、すぐこれだ。しょうがないなぁ、ウチのポンコツ助手は」
「中臣・・・」
「いってえな、誰がポンコツだ、離せ!」言いながら耳を引っ張る紗和子の手を振り解く。
「そう、色仕掛けは中臣が許さない、ってわけね・・・」
――わかった、だったら力ずくで!
そう言うと、制服の内ポケットから小型の短刀を取り出して鞘を抜き、右手を振り上げ、矢庭に真上から切りつけた。
ぶんっ!と、空を斬る音がして、一樹の目の前で一瞬キラリと刃が閃いた。
「うわぁ!」叫んだ一樹が尻もちをつく。慌てて紗和子が止めようとした。
が、ストンとそのまま美穂は短刀を落とし、いきなり一樹の目の前で泣き崩れた。
「私、どうしたらいいの…」
顔を上げ、泣きながら一樹に掴み掛かかり、揺さぶって大声で喚いた。
「助けてよ、野原ぁ、恵を、恵を助けて! あの時、私を助けてくれたみたいに、あんたの血で、恵を助けてよぉ‼」
病院の床に二人座り込み、掴まれて、何度も美穂に揺さぶられる一樹がぽつりと言った。
「ごめん、それは無理だよ」
「なんでよ!」
思わず美穂が顔を上げた。
「そりゃあ、俺だって出来ることなら先輩のこと、助けたいけど」
「だったら・・・」
「でも、俺の血は、一時的に免疫力や治癒力を爆発的に向上させるだけで、病気を治す効果はないみたいなんだ」
「うそでしょ、どうしてよ…。――そんな…、そんなこと言わないで、助けてよ。ねえ、お願いだから、助けてよ・・・、野原ぁ…」
望みを絶たれ、再び泣きながら美穂が一樹にしがみ付いた。
「ごめん…」一樹が顔を背けた。
「仲代さん、泣かないで。そんなことしなくても、まだ先輩を助ける方法はあるよ」
しばらく黙って二人の様子を見ていた紗和子が静かに言った。
「えっ! ほんとう?」
涙でくしゃくしゃな顔を上げ、泣き腫らした目で紗和子を見た。
「でも、どうやって…」
「クーゲンドージが妖怪だ、っていうなら話は簡単。要は見つけ出して、私がその子を祓えばいいんだよ‼」