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そのときだった。
見渡す限り続く緑の畑の、はるか彼方、ようやく見える辺りで、ぽっと赤い火が見えた。
まさか、ルクスが?と一瞬思ったけれど。
そうだ、赤い火なら、ピサンリも使えたんだ、と思い出した。
虫の黒雲は今のところは見えないけれど。
ピサンリがいるから、ここは大丈夫かな。
走りだした足を止めたときだった。
ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。
え?
やっぱり、聞こえる?
それも、その音は、どうやら僕のマントの内側から聞こえる気がする。
僕は恐る恐る、自分のマントをめくってみた。
ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。
「うわああああっ!」
びっくりして思わず叫んだ僕は、その勢いで尻もちをついてしまった。
恥ずかしい格好になって、思わず辺りをきょろきょろと見回す。
有難いことに、この無様な姿は誰にも見られなかったみたいだ。
僕はごくりと唾を飲み込むと、意を決して、もう一度、そぉっとマントの中を覗き込んだ。
ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。
ごくっ。
大きな空気の塊を、思わず、飲んでしまった。
ぴん、と尖った二本の角。
何を考えているのかよく分からない、大きな目。
ひっきりなしにもしゃもしゃと、動いている口。
……な、なんで、君、ここにいるの?
もう一度、そぉっと、覗く。
今度はもう、びっくりしないぞおと心に決めて。
ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。
否が応でも目の合ってしまう大きな目が、じぃっとこっちを見上げていた。
ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。ぶ。
あ。音がするのは、マントのなかでずっと飛んでるからだ。これは、羽の音なんだ。
どうでもいいけど、そんなことに気づいたとき、そいつは、細い足でしがみつくように僕の胸のあたりに止った。
ブローチかなんかのようにも見えるけど、いや、違うって。これ、虫だって。
僕はもう一度、ぎゃあ、と叫ぶと、尻もちをついた。
するとそいつは、ぶぶぶ、と飛び上がって、僕の目の前にきた。
虫の大きな目と目が合ったまま、ずっと目を逸らせない。
すると、虫は、なんだか頭を下げるみたいに、ぶぶぶ、と頭のほうを低くした。
まるで何度もお辞儀をするみたいに、ぺこり、ぺこり、とそれを繰り返した。
う、ん?
もしかして、びっくりさせて、ごめん、とか言ってる?
まさかね。
虫だよ?
虫は、そんな、謝ったりなんか、しないでしょ。
いや、しない、かな?
本当に、しないのかな?
僕は、もう一度恐る恐る、虫と目を合わせてみた。
虫は、あきらかに、ご、め、ん、と伝えるように、頭を下げてみせた。
……この虫、謝ってる?
と、そのときだった。
むこうの畑のほうで、大勢の人の話す声がした。
声はだんだんこっちのほうへ近づいていた。
「ここへ!早く!」
僕はとっさに虫を僕のマントのなかに隠していた。
なんでそんなことしたのか分からない。
この虫は、畑にとっては害を成すものなのに。
赤い火に滅ぼされてしまう、悪いものなのに。
いや、でも、だから、見つかったらいけない、ってとっさに思ってしまったんだ。
虫は僕の気持ちが分かるのか、すっと大人しくマントのなかに入ると、僕のからだに隠れるように後ろに回ってじっとしていた。
虫が隠れるのと同時くらいに、畑で働く人たちが姿を現した。
僕を見つけた彼らは、目を丸くしたけれど、とりたてて怒ったり騒いだりはしなかった。
へたりこんでいる僕に近づいてくると、ぐるっと取り囲む。
口々に何か話しかけてくれるけど、平原の言葉は分からない。
僕は曖昧な笑みを顔に貼り付けて、困ったように彼らの顔を見回していた。
すると、彼らのうちのひとりが元来たほうへむかって走り出した。
その人が去った後も、他の人たちは僕を取り囲んだまま見下ろしている。
僕は、隠している虫を見つけられないかと、ただひたすら、はらはらしていた。
しばらくして、ピサンリが連れられてきた。
ピサンリは、僕を見て、おんやあ?と呑気な声をあげた。
「どうしたんじゃ?賢者様が、こんなところまで。」
「っき、君が、水袋を忘れたから、持ってきてあげたんじゃないか。」
僕は虫を隠しているのがうしろめたくて、思わず強く言ってしまった。
ピサンリは、ちょっと目を丸くしたけど、すぐに、それはすみませんのう、とにこっとした。
「しかし、なんで、座っておるのじゃ?
どこか、怪我でも?」
僕のからだに触って確かめようとするように、手を伸ばして近づいてくるピサンリから、僕は必死に後退った。
「け、怪我なんか、してないよ!」
「怪我がないのはなによりじゃ。
ところで、肝心の水袋は…?」
あ。そうだった。
僕は、マントを捲らないように気を付けながら、水袋を持った手だけマントから出した。
「……?
これは、どうも、じゃ。」
ピサンリは僕の仕草を奇妙に思ったのか、ちょっと首を傾げた。
僕はなんとかこの場を切り抜けようと、必死に言い訳をした。
「さ、さっき、ちょっと、びっくりして、それで、尻もちをついて…」
ピサンリは、それはいかん、と眉をひそめた。
「腰でも打ったのか?
そんなに、何に驚いたのじゃ?」
「…赤い、火が…
あれは、ピサンリだったの?」
僕の声は、ちょっと震えていた。
背中に隠した虫を今にも見つけられるんじゃないかって思った。
ピサンリは僕の怯えた目を、違うふうに取ってくれたみたいだった。
「それは、怖がらせてしまったのかのう。
しかし、あの火を、ここから、見えたのか?」
さっきの赤い火は、ずいぶん遠かった。
だけど見えたのは本当だったから、僕は正直に頷いた。
そうか、とピサンリは慰めるみたいに笑ってくれた。
「大丈夫。怖い虫は、ここには来んよ。
ちらっとでも見かければ、逐一、わしが退治しておるからの。」
そうだったんだ。
僕はちょっと目を丸くした。
ピサンリは、ちょっと困ったみたいに笑った。
「ルクス様は、虫を退治することは、本心では嫌だと思っておられるじゃろう?
わしは、そこにこだわりはないからのう。
ルクス様からエエルの石を預ってきたのよ。
虫も群れにならんうちに、少しずつ、退治すれば、大事にもならんからのう。」
そうだったんだ。
「もしかして、そのために、畑で働いて…?」
「いや。
わしは生来、畑仕事は好きなんじゃ。
土を触っていると、一日、あっという間じゃからな。」
ピサンリはからからと明るく笑った。
他の人たちは、僕らの会話を心配そうに見守っていたけど、ピサンリが笑うと、安心したように一緒に笑った。
僕は、こんないい人たちに隠し事をしてごめんなさい、って思いながらも、背中の虫は見つからないように、そっと、マントの前をかきあわせた。
虫はさっきから音もさせずに、じっとしているみたいだけど。
なんとか見つからずにこの場を切り抜けられますように、って僕はずっと思っていた。




