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だけど、こんなの序の口だった、って翌朝になって知ることになる。
一晩の宿代ですと言って差し出された請求書に書いてあった金額は、僕らの所持金全部を出しても到底足りない金額だった。
「払えないなら馬車と馬を寄越せと言われた。」
ルクスはそう言ってため息を吐いた。
「やっぱり、こんなところ、さっさとオサラバじゃ!!
こんな法外な金額など払えるものか。
かまわん、踏み倒してしまえ!」
ピサンリは足を踏み鳴らして叫んだ。
「いや、それは、流石にまずいだろう?」
ルクスまでピサンリを宥める側に回っていた。
「けど、オサラバするにしても、赤い火を教えないといけないんだろう?」
アルテミシアは、どうする?ってルクスを見た。
ルクスはうーんと唸った。
「…とりあえず、紋章、教えてみるか。」
ピサンリは思い切り渋い顔をしてルクスを見たけど、反対はしなかった。
ルクスが町長にそれを伝えると、赤い火を使えるようになりたいという人たちが大勢押しかけてきた。
到底宿の部屋に入りきる人数じゃなかったので困っていたら、昨日の集会所を使うように、ってお使いの人が言いにきた。
昨日、素通りした大広間を使わせてもらうことになった。
だけど、集会所の大広間にも入りきらない人数だった。
戸口も窓も全部解放して、その外にも鈴なりに見物の人たちがいた。
まずは、紋章を覚えるところから。
大きな板にルクスは木炭を使って紋章を描いた。
これを真似して描いてもらったんだけど。
紋章って、複雑怪奇な図形で、おまけにそれを一気に描き上げないといけない。
ほんの少しでも間違えたら秘術は発動しないし、エエルの石で描いたものは、描いた先から消えていくから、ゆっくり描くわけにもいかない。
そういえば、前にも、ピサンリの村で、こんなことあったっけ。
だけど、結局、紋章を描けるようになった人はいなかったんだ。
ピサンリとアルテミシアも手伝って、みんなに教えて回ったんだけど。
結局、その日一日やっても、描けるようになる人はいなくって。
諦めた人たちはぽろぽろと帰って行って、夕方になるころには、もう誰も残っていなかった。
「さて、今夜はどうするか。
馬車で野宿できるところはないかなあ。」
「あの宿にもう一晩泊まるわけにはいかないなあ。」
ルクスとアルテミシアはそう言って相談していた。
そこへ、恐る恐る、部屋に人が入ってきた。
あの、最後まで残ってなんとか紋章をマスターしようと頑張っていた人だった。
その人は手に籠をぶら下げていた。
そこには昨日も食べたあの固いパンと、それから、水の入った壺が入っていた。
「朝から何も食べてないでしょう、って持ってきてくれた。」
僕らは有難くその差し入れをいただいた。
今日は僕も頑張って、パンを水に浸けて食べた。
ルクスはその人とその後もいろいろと話しをしていた。
そうして、ちょっとほっとしたように僕らを振り返って言った。
「馬車を置いて野宿できる場所はないかって尋ねたら、自分の家の裏庭を使ってくれって言ってくれたんだ。」
それは助かった。
あの寝心地のいいベットはすごく有難かったけど、あんなにたくさんお金がかかるのに、毎晩泊まるわけにはいかない。
僕はその親切な人にせめて感謝の気持ちを伝えたくて、何回もお辞儀をした。
そうしたら、その人は、なんだかちょっと笑ってくれた。
「それから、自分の家には井戸があるから、そこの水は好きなだけ使ってくれ、って。」
「ひゃっほう!!」
僕は思わずそう叫んで、踊りだしていた。
いつもそういうことをするのはピサンリの役目だったんだけど。
この時はピサンリも僕に先を越されて、びっくりした目をしてこっちを見ていた。
けど、すぐに思い出したみたいに、ひゃっほう!!!と叫ぶと、僕と一緒に踊りだした。
踊っている僕らを見ながら、ルクスとアルテミシアは思い切り苦笑していた。
馬車と馬を持って行くと言うと、宿屋はそれはダメだと渋った。
ルクスはそれを交渉して、馬車と馬以外の荷物を全部、そこへ置いて行くことにした。
食料はもうほとんど残っていなかったけど、野宿をするときに使う物や料理の道具もたくさんある。川沿いの町の人たちがくれた物は、なかなかいい物もたくさんあって、それを見た宿屋の主人は、ようやく、渋々、と言った顔で承知してくれた。
僕らは、森から持ってきた一番大事な物と、あとは馬車と馬だけになって、宿を後にした。
それにしても、川沿いの町の人たちのおかげで、なんとかここを切り抜けられて助かった。
あの親切な人は、広い家で一人暮らしをしているらしかった。
ここは先祖代々、この人の家だったらしい。
裏庭はとても広くて、大きな井戸もあった。
久しぶりに井戸の水をたっぷり使ってからだを洗ったら、ほっとした。
すっかり夜も暗くなってから、その人は僕らの馬車にまた籠を持ってやってきた。
籠の中には、野苺がたくさん入っていた。
歓声を上げそうになった僕の口を、しっ、と言ってルクスが抑えた。
「この苺は密造品だから。こっそり食え。」
み、みつぞうひん?って、何?
目だけでピサンリを見たら、ピサンリはちょっと苦笑して教えてくれた。
「ここの町では勝手に畑を作ることは禁止されておるのじゃ。
しかし、古くからこの地に棲む者の家には、広い庭のあるところが多い。
そこでこっそりと、家族が食べる物を作っておる者も結構いるらしい。
けれど、それは、見つかれば捕まって牢屋に入れられる大罪なのじゃ。」
自分たちが食べる物を作るのも、大罪なの?
本当に、世界は広くて、僕らの知らないことだらけだ。
だけど、あまりにもそれは不便だなって思った。
「そんな大事な苺、もらっちゃって、いいのかな?」
本当は喉から手が出てきそうなくらい、食べたかったんだけど。
なんだか悪い気がして、僕は必死に手を抑えながら尋ねた。
そしたら、ルクスにくしゃくしゃと髪をかき混ぜられた。
「いいから食え。
食わないとお前のからだもよくならないだろう?」
「この苺食べたら、すぐに元気になりそうだよ。」
僕は我慢しきれずに苺をひとつ手に取った。
夜の暗がりでも分かるくらい、赤くてつやつやしていて、宝物みたいだった。
「いっただっきま~す。」
思わず元気に言ったら、また、しっ、と口を塞がれた。
う。ごめんなさい。
それでも、一口食べたら、嬉しさを抑えきれなくて、なんとか声は出さないように、代わりに隣のピサンリの背中をばんばん叩いた。
「おう。そうかそうか。」
ピサンリは迷惑だっただろうけど。
怒りもせずに、ルクスよりは優しく僕の髪を撫でてくれた。




