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ルクスには、ここから動くな、って言われてたから。
僕らは、そのまま大人しくそこにいた。
虫のことも、畑のことも、それからルクスたちのことも、気になって仕方ないんだけど。
今は、行っても、助けどころか足を引っ張ることにしかならないと思う。
あの、どこどこどこ、はいつのまにか聞こえなくなっていた。
いったい、なんだったんだろう?
赤い火は、あっというまに虫の雲を追い払った。
なんとなく、好きにはなれない町の人たちだったけど、それでも、畑は全滅しなくてよかったって思う。
虫たちがいなくなると、また明るい日差しが届き始めた。
「朝食の支度でも、するかのう。」
ピサンリはのんびりと朝ご飯の支度を始めた。
そうこうしているところへ、数頭の馬が町のほうからこっちへ近づいてくるのが見えた。
まさか、僕ら、捕まえられるの?
怖かったけど、今から走って逃げたところで、馬にはすぐに追いつかれてしまう。
こんなに見晴らしのいい場所じゃ、隠れる場所もない。
それに、その一団の先頭は、どうやら、ルクスとアルテミシアだ、って気づいたから、僕らはびくびくしながら、そのままそこで待っていた。
馬に乗った一団は、すぐ近くにくると、わざわざ馬を下りて、僕らのほうへ近づいてきた。
ルクスは、怯えた目で見ている僕らに、安心させるように笑いかけた。
「虫を追い払ったお礼をしたいから、町へ来てくれ、だと。」
え?と僕は目を丸くした。
町の人たちは、僕らにむかって、超にっこにこ顔で、うんうん、と頷いてみせた。
「ところで、おっちゃんはどうした?」
アルテミシアはきょろきょろと辺りを見回す。
僕はピサンリと目を見合わせてから、首を振った。
「朝からいないんだよ。
町へ帰ったんじゃないかな。」
「そうか。恩人に会う、とか言っていたな。」
アルテミシアは、うーん、と何か考え込むようにしたけど、それ以上は何も言わなかった。
「さて。
もう処刑される心配もないし。
とっとと行くぞ?」
ルクスはにこにこと言うんだけど、僕は、ちょっと困って火にかけた鍋のほうを見た。
「朝ご飯、ピサンリと作ったんだけど…」
「あ。そうだったのか?」
ルクスは今頃気付いたみたいにピサンリに尋ねた。
ピサンリは、余計なことをしたかのう、と困ったように返した。
「いや。
なら、朝食を済ませてから、改めて町へ行くことにしよう。」
アルテミシアはそう言うと、ほくほくと鍋の中身を確かめに行った。
鍋の蓋を開けた途端、ほう!ご馳走だ!という叫び声が聞こえる。
ルクスはちょっと呆れたように笑ってから、町の人たちになにか平原の言葉で言った。
「それなら、後で来てくれ、だとさ。」
こっちを振り返ったルクスがそう言うと、周りの町の人たちも、にこにこと一斉に頷いていた。
町の人たちが帰っていくのを見送ってから、僕らは朝食にした。
ピサンリ特製、穀物入りのスープだ。
野菜や木の実もたくさん入ってる僕の大好物。
もう持っている食料も少なかったから、ピサンリは大奮発して作ってくれたんだろう。
だけど、僕はせっかくのそのご馳走も、あんまり食べられなかった。
「どうした?
元気がないな?」
ルクスが心配そうに尋ねてくれる。
「ここのところ、もうずっとそんな感じだな。」
アルテミシアも眉をひそめた。
そうなんだよね。なんでこんなに調子が悪いんだろう、って思うんだけど。
「町に着いたら、屋根と壁のあるところで、ゆっくり眠ったらいい。
そうすれば、また元気になるさ。」
励ますように言ってくれるルクスに、僕もうんって頷いた。
朝食をとりながら、ルクスは今朝何があったのか話してくれた。
馬で駆け付けたルクスとアルテミシアが見たのは、夏の黒雲みたいな虫の大群だった。
その分厚さは、辺りが夜のように真っ暗になるくらいだったそうだ。
虫たちは畑の作物にむかって下りていく。
畑には町の人たちがいて、棒や松明を振り回して虫を追い払っていたけれど、効果なんてほとんどなさそうだった。
とっさにルクスは赤い火を使った。
町の人の持つ松明を見て、そうしたのかもしれない、って言ってた。
赤い火は普通の火ではないけれど、もしかしたら虫を脅かして追い払えるかもしれない、って思ったんだそうだ。
結果、効果は覿面だった。
赤い火は、畑には一切被害を与えることはなく、虫だけを焼き払った。
それを見た群れの虫たちも、一斉に引き返していった。
虫退治をしていた町の人たちは、ルクスが虫を追い払ったのを一部始終、見ていた。
そうして、ルクスのことを、畑を救ってくれた英雄だって言った。
昨日の無礼を詫びて、どうかお礼をしたいから、町へ来てくれって招待された。
それでルクスは皆を連れて、僕らを迎えにきた、ってわけ。
僕はほれぼれとルクスを見上げた。
本当、どこへ行っても、英雄、になっちゃうんだね、ルクスって。
格好いいなあ。
とっさのときに、あんなふうに動けるのって、やっぱりすごいって思う。
僕なんて、びびっちゃって、身動きもできないんだもの。
百年経っても、僕は、ルクスみたいな、英雄、にはなれないと思う。
やっぱり、ルクスって、生まれたときから、特別な人、なんだ。
こんな人とずっと一緒にいられるなんて、僕って、なんて幸運なんだろう。
朝食を終えても、あのおっちゃんは戻ってこなかった。
やっぱり、町へ帰ったんだろうか。
まさか、見つかって、処刑、とかされてないよね?
心配だったけど、これから町へ行くなら、そこで会えるかもしれないって思った。
それほど、親しい、ってわけでもないんだけど。
でも、やっぱり、いろいろと話したりもしたし、まったくの他人、とも思えない。
ただ、無事だってことが分かれば、安心できるなって思った。
僕らは馬車に乗って出発した。
町へ近づくと、広々とした畑が広がり始めた。
作物がたくさん実る楽園だ。
こんなにいろんな種類の作物の植わっている大きな畑は見たことがなかった。
この景色に、そんなに気持ちが浮き立たないのは、よっぽど体調が悪いんだ。
それが残念だった。
虫を追い払ったお礼をしてくれるって言ってたから。
きっと今日は、この畑の作物をたっぷり使ったご馳走だろう。
だけど、あんまり食べられないかもしれない。
……つくづく、残念だなあ……
畑へ通う馬車や人のために、この辺りは街道が立派な石畳になっていた。
だけど、またそれが、微妙に馬車の揺れに繋がって、僕はさっきから具合が悪かった。
折角、ピサンリが作ってくれたご馳走なのに。
朝食べたものを吐いてしまいそうで、僕は、なんとか必死に、吐き気をこらえていた。
町はぐるっと城壁に囲まれていた。
城壁の内側へ入ると、大勢の人たちが、僕らを見物に集まってきた。
僕はその人たちのなかにおっちゃんがいないかと、きょろきょろと探した。
けど、おっちゃんの姿は、そのなかにも見当たらなかった。
そうだ。おっちゃんの恩人、はどうだろう?
確か、年老いた夫婦だ、って言ってたっけ。
あ。いた。
あ。こっちにも。
あれ?あっちにもいるぞ?
考えてみれば当たり前で、町には老夫婦なんて、それこそいっぱいいるんだ。
老夫婦、ってだけじゃ、どの人なのかさっぱり分からない。
だけどまさか、ひとりひとりに、聞いて回るわけにもいかないし。
どうしたもんかなあ。
そう思った途端、また吐き気が込み上げてきて、僕は唾を何度も飲み込んで必死に堪えた。
…無事だと、いいんだけど。
おっちゃんも。それから、僕も。
後はもう、早く馬車から下りたいと、そればっかり考えていた。




