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滝の水は、相変わらず、激しく噴き出し続けていた。
この上の森も、もしかしたら、荒廃が進んでるのかもしれない。
ルクスはそう言って崖を見上げていた。
前だったら森が受け止めていてくれた雨を、今はもう、森は受け止めきれないんだ。
滝の水は、いったんヌシ様の湖に溜められて、そこから、川へと流れ出す。
だから、川の水はいっぺんに増えたりはしなかった。
「あの川底のごみな?
あれ、どうなってたと思う?」
ルクスは楽しそうに僕に尋ねた。
「俺たちのいない間に、ピサンリが、町の連中に言って、あれ、全部、浚ったんだ。
そんでもって、土の中に埋めたんだと。
夏になる頃には、その土も畑に使えるだろう、って。」
「あれを浚うなんて、正直、感心したけどね。
そのおかげで、町の川は突然水がきても、溢れなかったんだ。」
アルテミシアもどこか嬉しそうだった。
「俺たちの見てないところでも、ピサンリ、大活躍だな。」
ルクスはからからと明るく笑ってみせた。
「今は、屋敷の厨房で大活躍中だよ。
君に久しぶりにご飯をちゃんと食べさせるんだ、って。」
アルテミシアはにこにこしながら僕に言った。
ちょっと僕が元気ないから、元気づけようとしてくれたのかもしれない。
「ピサンリのご飯?」
そう繰り返した途端に、僕のお腹がぐーって鳴った。
「プリンは鍋いっぱい作るってさ。」
そして、ルクスがそう付け足した途端に、頭のなかは、もうプリンでいっぱいになった。
僕はいそいそと歩き出した。
後ろでルクスとアルテミシアはくすくす笑ってたけど、そんなのもう、どうでもよかった。
ぷりんぷりんぷりんぷりん…
歩きながら、ぶつぶつとそれだけ繰り返していた。
リョウシュは、川を干上がらせたり、いろいろとひどいこともしたんだけど、町の人たちは、リョウシュのことも助けに来てくれた。
だから、疲れ果てて動く気力もないリョウシュの世話は、有難く町の人たちにお願いした。
屋敷に近づくと、なんだか、いい匂いがする気がした。
気のせいかもしれないけど。
裏口から厨房に入ったら、そこに、顔が八つあって、手が十六本あるみたいな、化け物がいた。
いや、化け物じゃなくて、ピサンリだ。
いい匂いは気のせいじゃなかった。
厨房中、いい匂いでいっぱいだった。
ふわっと香る匂いを胸いっぱいに吸い込んだ途端、申し訳ないくらい、とてつもない安心感と幸福感が僕を満たした。
ピサンリは、湖の水をくみ上げる水車よりもっと素晴らしい動きで、火を掻き立て、鍋をかき混ぜ、壺をどかし、小皿の味をみて、こっちを振り返った。
「ピサンリ!」
「おかえり!」
分身していたみたいなピサンリは、あっという間にひとりに戻ると、僕のほうへ駆け寄ってきて、いきなり抱きついた。
僕は僕より小さいピサンリを前屈みになって抱き返した。
ううう。この感じ。ちょっと窮屈で、苦しいんだけど。
なんか、懐かしいよ。
ピサンリは、そのままずるずると床に座り込むと、床に手をついて頭を下げた。
「すまない。わし、ちょっと、みなさんのこと、疑ってしもうたのじゃ。」
「疑った?」
うつむいたままそう言うピサンリの手を、僕はぎゅっと引っ張って顔を上げさせた。
ピサンリは必死に目を逸らせて、ほろほろと泣きながら、もう一度、すまない、と言った。
「もう帰って来られんのではないか、と。
ここには吊り橋もある。
川のむこう側へも、行けるのじゃもの。」
あ、そっか。
僕はその事実に今初めて気づいた。
「馬車もわしも、賢者のみなさんにとっては、ただのお荷物。
ここに置いて、身軽に旅立たれるのかもしれんと。」
「そんなこと、思い付きもしなかった!」
僕は目を逸らせるピサンリの目の前に顔を突き出して、じっとその視線を捕まえた。
「遅くなってごめんね?
だけど、ピサンリのこと、置いて行こうなんて思わなかったよ?」
「そうじゃろうとも。
ルクス様が町へ戻ってこられたときに、わしはつくづく自分の浅はかさを思い知ったのじゃ。」
ピサンリはため息を吐いて、首を振った。
「最初は川をお調べになって、すぐに戻られると思っておった。
けれど、何日も、何日も、待っても待っても、お戻りにはなられん。
そのうちに、むくむくと、疑いの気持ちは膨れ上がって…
それというのも、わしは、みなさんのことを、心から信用しておらんかったのかと…」
「それは、僕らのせいだよ。ピサンリは悪くない。
僕らも、もっと早く帰れると思ってたんだけどさ。」
僕はもう一度ピサンリと目を合わせて、ごめんね、と言った。
ピサンリは僕と目を合わせて、初めてちょっとにっこりしてくれた。
「なのに、皆さんは、原因を突き止めるだけじゃなく、その解決まで…」
ピサンリは、涙ぐみながら、まだ話していたんだけど。
そのとき、僕のお腹が、ぐーって鳴った。
僕ら同時に真顔になってから、一緒に笑い出した。
「そうじゃそうじゃ。
そんなことより、じゃ。」
ピサンリは弾けるように飛び上がると、また顔が八つ、手が十六本の化け物に戻った。
ピサンリのご馳走は、もう、本当に、文句のつけようのないご馳走で、僕は食堂へ行くのももどかしくて、厨房でそのまま食べた。
ピサンリはちょっと困ったみたいに笑ってたけど、僕に好きにさせてくれた。
ご馳走は、僕が好きなだけ食べても、みんなの分もなくならないくらいたくさんあったから、僕は全然遠慮しないで食べた。
好きなだけ食べていいって、ルクスとアルテミシアも言ってくれた。
もちろん、鍋いっぱいのプリンもあった。
鍋いっぱいプリンの入った鍋も、いっぱいあった。
だから、僕は、鍋ひとつ分、ひとりで全部平らげてしまった。
ふう。流石にお腹いっぱい。
満足した僕は、そのまま厨房の隅で壁にもたれて眠ってしまった。
ちゃんと部屋に行けって、何人かに言われた気もするけど。
人の気配のするここがいいんだ。
ルクスとアルテミシアの笑い声が聞こえていて、忙しそうなピサンリを見ていられるここにいたかった。
目を覚ましたら、もう夜になっていた。
誰がかけてくれたのか、僕はちゃんと毛布にくるまっていた。
あっちの食堂のほうからは、まだ話し声が聞こえている。
大勢が話したり笑ったりするなかに、ルクスとアルテミシアと、ピサンリの声も混じっていた。
僕は起き上がると、みんなのいるところじゃなくて、屋敷の外に行った。
ついでに、厨房にあったご馳走を、両手に抱えられるだけ持ち出していた。
僕がむかったのは、湖だった。
以前は、湖は屋敷からだと少し歩かないといけなかったんだけど。
今は、もうすぐ近くまで迫ってきていた。
たぷたぷと水を湛えた水面は、月を映してきらきらと凪いでいる。
思い切り匂いを吸い込んだら、滝と同じ匂いがした。
僕は抱えてきたご馳走を、少しずつ、湖に流した。
ヌシ様だって、たくさん頑張ったんだから。
固くて苦い土じゃなくて、この美味しいご馳走を食べてもらおう。
ご馳走を全部湖に流すと、僕は、リョウシュの笛を取り出して、静かに吹き始めた。
この笛、返すの忘れてたなあ。
まあ、明日でいいっか。
最後にもう一度、ヌシ様にこの笛を吹きたかった。
笛の音でしか、ヌシ様には気持ちを伝えられないから。
この気持ちをちゃんと、伝えておきたかった。
きらきら、ちらちら、と水面が揺れる。
あの大きなヌシ様の姿は、もうどこにもない。
最初は、湖の水を毒に変えた化け物のように思っていたっけ。
ごめんね。
狂った笛の音は、ヌシ様もどこか狂わせてしまったのかもしれない。
丸めて詰めてあったのは、ヌシ様に聞かせる歌を描いたものだったけど。
そのせいで、笛はずっとちゃんと鳴らなかったんだ。
僕は、僕の土笛は、この世界で一番いい音だと思ってたけど。
この笛も、僕の土笛に負けないくらい、いい音だと思う。
川に水が戻ったから、もうすぐに、僕らもいよいよ舟で川を渡って、先へ行くんだろう。
だけど、ヌシ様のことは、ずっと忘れないよ。
笛を吹くの夢中になっていたから、いつの間にか隣にピサンリがいたことに気づかなかった。
「夜露はからだに毒じゃ。」
ピサンリはそう言って、僕の肩にマントをかけてくれた。
「よい笛の音じゃのう。」
ピサンリは僕の持っている笛を見て言った。
「これね、リョウシュの家に代々伝わる宝物なんだって。」
「賢者様はその笛で湖の主を操ったそうじゃのう。
誰一人傷つかず、町も無事じゃったのは、賢者様のお蔭じゃ、と。」
突然、そんなことを言い出したピサンリに、僕は目を丸くした。
「それは、全然、違うよ?
僕、ヌシ様を操ったりしてないし。
あれは、ヌシ様が自分でやったんだ。
僕は、それを横で見て、応援してただけ。
誰も傷つかなかったのは、ルクスとアルテミシアの力だし。
それに、町が無事だったのは、ピサンリのお蔭だよ!」
僕はルクスに聞いたことをピサンリに言った。
「君って、すごいね?ピサンリ!」
「折角いい土になるものを。もったいない、と思うただけのことですじゃ。」
ピサンリはちょっと照れたみたいに笑ってから、僕をもう一度見た。
「お前様のしたことに比べれば、小さいことじゃ。」
「だから、僕は何もしてない、って。
頑張ったのは、ヌシ様なんだ。
本当に、すごかったんだ。」
僕は、ヌシ様のことをピサンリに話した。
途中でちょっと泣いてしまったけど、ピサンリは、ずっと僕の話しを聞いてくれていた。
話し終えてから、僕はまた笛を吹いた。
ヌシ様に届くように、心を込めて吹いた。
その間も、ピサンリは黙ってずっと、隣に座っていてくれた。
湖の真ん中辺り、ちょうど月の映ったところで、ぴしゃりと銀色の何かが、跳ねたような気がした。




