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雨上がり。
僕らを助けてくれた水の蛇は、リョウシュと僕を湖の畔に下ろすと、そのまま姿を消した。
雲の切れ間から、いくつも光が下りてくる。
辺りの水の気配は、ぐんぐんと晴れていく。
見上げると、湖に大きな虹がかかった。
水の蛇は還っていったんだなって思った。
湖に毒の気配はもうなかった。
多分、たっぷり流れ込んだ森の水が、毒は全部、浄化してしまったんだろう。
畑と屋敷はなんとか無事に残っていた。
リョウシュは大きくなった湖を見つめながら呆然としていた。
湖にはたっぷりと水が湛えられていて、不思議にそれは凪いでいた。
その真ん中辺りに、傷だらけになったヌシ様が、白いお腹を見せて浮いていた。
僕はふと思い出して、リョウシュに声をかけた。
「ヌシ様に吹いていた笛を、見せてもらえないかな?」
リョウシュはぼんやりしたままあっさり僕に笛を渡してくれた。
「…そんな笛、もう、何の役にも立たない…」
リョウシュはつまらなさそうに言った。
そうかもしれない。
ただ、僕は、やっぱり、笛とか見ると、いろいろ確かめたくなるんだ。
それは両手のひらを足したくらいの長さの細い縦笛だった。
僕はしばらくその笛を確かめて、筒の中に、なにか、丸めて突っ込んであったのを引っ張り出した。
そっか。このせいで、あの笛はまともな音が出なかったんだ。
ひろげてみると、それは、柔らかい獣の皮だった。
皮にはなにやら奇妙な丸が縦に並んだ図がずらっと描いてあった。
しばらくそれを見ていて、あ、っと思った。
その丸は、縦笛の穴の数と同じだった。
穴の塗りつぶしてあるところを指で抑えて順番に吹いてみると、それは何かの歌のようだった。
あ。
これは、あれだ。
町の人たちの歌。
みんなで力を合わせて町を作ったときの歌だ。
優しさと力強さと希望と。
それを全部まぜこぜにしたみたいな、あの歌だ。
みんなが歌っていたのとは、ほんの少しだけ違っている。
もしかしたら、こっちが元の形なのかもしれない。
みんなが歌っている間に、少しずつ歌いやすいように変形したんだろう。
それから、もう一度、あ、と思った。
嵐のなか、ヌシ様と奏でたあの曲。
足りないところは適当に補っちゃったけど。
あれも、よくよく考えたら、原型は同じ歌だ。
多分、きっと、これが全部の始まりなんだ。
僕は、少しだけ練習してから、リョウシュの笛でその歌を吹き始めた。
笛はびっくりするくらい清んだ音を立てた。
凪いだ湖に、音はずっと拡がっていく。
少しゆっくり目に優しく吹くと、それはどこか子守歌みたいにも聞こえた。
ヌシ様、おつかれさま。
僕はその気持ちを息に込めて吹いた。
この歌は、ちゃんとヌシ様に届いているかな。
リョウシュは、びっくりした目をして、笛を吹く僕を見ていた。
この笛がちゃんとした音を立てたのにびっくりしたのか。
それとも、この歌を僕が吹いたことにびっくりしたのか。
そのときだった。
お腹を見せて浮いていたヌシ様は、突然、びくっと立ち上った。
いや、魚が立ち上る、とか変だけど。
水の中に真っ直ぐに立って、ちゃんと泳ぐようになったんだ。
それは、人で言えば、立ち上った、という感じに近かった。
ぴぃぃぃぃぃっ!
ヌシ様は一声高らかに鳴くと、ゆっくりと泳ぎ始めた。
そして、大きくなった湖をぐるっと一周すると、勢いをつけて、川との間に作った堰に体当たりした。
リョウシュと僕はぎょっとして、ヌシ様のすることをただ見ているしかなかった。
ヌシ様は、さっきまで死んだように浮いていたとはとても思えないくらい、何度も何度も堰に体当たりを続けた。
「!!!
そんなことをしたら、ヌシ様のからだは、もっとぼろぼろになっちゃう!」
それに気づいた僕は、ヌシ様をやめさせようと、叫んだ。
だけど、僕の言葉は、ヌシ様には届かない。
そうだ、笛だ。
僕は急いで笛を吹いた。
だけど、どんなふうに吹けばいいんだ?
強い調子で吹けば、ヌシ様はますます勢いをつけて、堰に突っ込んでいく。
これじゃ、止められない。
堰に体当たりをする度に、なにか小さなきらきらしたものが宙に舞う。
あれは、ヌシ様の鱗だろう、
たくさんのキラキラをまき散らしながら、ヌシ様は、堰を壊し続けた。
ヌシ様を見ていた僕は、いつの間にか、とても優しい調子で笛を奏でていた。
辛くて、悲しくて、だけど、それだけじゃない。
これは、有難う、の気持ち。
ヌシ様には、笛の音しか通じない。
だから、せめて、気持ちを込めて吹くしかない。
やがて、堰は破れて、そこから水が流れ出す。
川に流れが戻ってきた。
それも、いっぺんにどっさりにならないように、ちゃんと、細く破ってある。
流石、ヌシ様だ。
すると、今度こそ力尽きたように、ヌシ様は、ぽっかりと湖に浮かんだ。
僕は、泣いて泣いて、涙が止まらなかった。
だけど、笛は吹き続けた。
せめてもう、これしかできないから。
雨上がり。どこまでも凪いだ世界。
ヌシ様の守ってくれた世界。
どうかどうか、平穏無事でありますように。
ゆっくりと、ヌシ様のからだは、湖に沈んでいった。
そのまま笛を吹き続けていたら、おーい、と呼ぶ声が聞こえた。
振り返らなくても分かる。
ルクスとアルテミシアだ。
馬に乗ったふたりと、その後ろから、大勢の町の人たち。
みんな手に、食べ物やら、何かの道具やら、いろんな物を持っていた。
「大丈夫か?」
すぐ近くまで来たルクスは、笛を吹き続けている僕にそう声をかけた。
ルクスの温かい掌を背中に感じて、僕は、そっと笛から唇を離した。
見上げるとルクスの笑顔が眩しい。
「…ルクス…ヌシ様が…」
それだけで、ルクスには、僕の言いたいことは全部伝わったみたいだ。
「そっか。
お前もよく頑張ったな。」
わしわしと頭を撫でられて、そうしたら、またじゅっと涙が溢れてきた。
僕はルクスの胸にしがみついて、小さい子みたいにわんわん泣いた。




