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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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いつの間にか手が届きそうなくらい低い雲が、辺り一面を覆っていた。

まだそれほど暗くないのは、雲がそこまで分厚くないからだろう。

だけど、雲のないところは、ずっとずっと遠くまで見渡しても、もうどこにもなかった。


もうじき、ここにも、雨は、来る。


日差しはないのに、妙に温かい風が吹いている。

風のなかには、たっぷりと雨の匂いを感じた。


この匂いは、どこかあの滝と似ていた。

だから、この匂いに包まれていると、不思議と少し安心した。


とても、怖い、けど。

でも今は、その気持ちを押し込める。

大丈夫。きっと、なんとかなる。


湖を目指して、僕は走った。

ときどき、あの、キィエーーーッが聞こえてくると、その度に耳を抑えてうずくまった。

これだけは、何回聞いても慣れないなと思いながら。


すると、僕の近くにあった水気がすっと結集して、大きな蛇のようになると、僕を背に乗せて飛び始めた。


少しびっくりしたけど、滝の背中には何回も乗っていたから、怖くはなかった。

それよりも、こんなふうに姿を取れるくらいに、この辺りには水の気配が濃くなっているのかと思った。

ここに漂うのは、滝のむこう、森から溢れてきた水の気配だ。

何日か前から森で降り続いていた雨が、こちら側にもやってきたんだ。


水の蛇は僕を乗せたまま、高く高くへ飛び上がっていった。

すると、あの、キィエーーーッのダメージも、少しずつましになっていった。

僕はお礼の気持ちを込めて、そっと水の蛇の背中?を撫でた。

ぱしゃっ、と音を立てて僕の掌は水の蛇の背中に沈み込んだけど、水の蛇は、軽く頭を上げて応えてくれた。


高く高くから僕の見た光景は、湖の縁をさらにがじがじと齧り取るヌシ様の姿だった。

あまりに一気に拡げたものだから、湖の水が浅くなって、ヌシ様のからだは半分くらい水の外に出ていた。

それでも構わず、ヌシ様は、一心不乱に湖を拡げていた。

湖の縁に作ってある水車にも構わなかった。

というより、この勢いだったら、いずれリョウシュの畑や屋敷にも、ヌシ様の勢いは届きそうだった。


湖の縁に、へたり込んでいる人の姿が見えた。

あれは、リョウシュかな。

リョウシュはひとりぼっちで、周りには誰もいない。


ヌシ様の歯はそのリョウシュのすぐ傍まで、もう削り取っていた。

あと、一口か、二口。

ヌシ様が齧ったら、リョウシュも飲み込まれてしまいそうだった。


リョウシュは、必死にあの笛を吹き鳴らしていた。

けれど、今日のヌシ様は、いっこうに収まる気配がなかった。

もう笛を吹いてる場合じゃない。

早く逃げないと。


もしかしたら、どこかに怪我をして立てないのかもしれない。

だけど、助けてくれそうな人は近くにはいなかった。


僕は水の蛇に頼んだ。


「あの人を、助けてほしいんだ。」


水の蛇は、軽く頭を上下させると、リョウシュ目掛けてまっしぐらに下りていった。


僕の腕の力でリョウシュを抱え上げられるかな、って心配してたんだけど、水の蛇は、尻尾で器用にリョウシュのからだを巻き取ってくれた。

有難う。助かるよ。

そのままもう一度、高いところへ離脱する。

水の蛇の尻尾が揺れて、一瞬、ヌシ様のひれに、はたき落とされそうになったけど、間一髪、水の蛇はそこをすり抜けていた。


水の蛇は、リョウシュを尻尾で締め付けたまま、高く高くへ上って行く。

リョウシュの悲鳴のようなものが聞こえるけど、水の蛇は知らん顔をしている。

背中に乗せても、大人しく乗っててくれるとは限らないし、他にどうしようもないのかもしれないけど、ちょっと、容赦ないなと思った。


高く上ると、いつの間にか辺りは真っ白い霧に覆われていた。

いや、これは霧じゃない。雲だ。

雲はどこからかずんずん集まってきていて、みるみる、辺りは薄暗くなっていく。

その暗いところに、ぴしっ、ぴしっ、と小さな稲妻も走り始めた。


と。

突然、周りの雲から、ぼつぼつと水が落ち始めた。

水滴はみるみる大きくなって、地上の雨は激しくなっていく。

あんなにたくさん水が落ちていくのに、辺りの雲は薄くなるどころか、ますますどこからか雲が集まってきていた。


ふと思い付いて滝のほうを振り返ると、滝は、見たこともないくらい太くなって、崖を覆っていた。

滝の上からは、ものすごい勢いで水が噴き出している。

まるでなにかの生き物の鬣みたいだった。


滝の水と降りだした雨は、ヌシ様の拡げた湖にどうどうと流れ込んでいた。

ヌシ様の拡げるよりも、流れ込む水の方が勢いが強い。

みるみるうちに、ヌシ様のからだも、またちゃんと水につかった。


ヌシ様は雨に濡れてどろどろになった土を、まだまだ齧り取っていた。

よく見ると、ヌシ様の齧ったところに、きらきらした銀色のものがたくさん落ちている。

なんだろうと思っていたけれど、キィエーーーッという叫びと共に水上に飛び上がったヌシ様の姿を見たとき、ようやく気づいた。


きらきらしたものは、ヌシ様の鱗だった。

ヌシ様の口の周りの鱗は土に擦ってずいぶん剥げ落ちていた。

口の周りだけじゃなくて、からだもあちこち、鱗が剥げていた。

尾やひれも、裂けたり千切れたりしている。

鱗の剥げたところから、赤い血のようなものも滲んでいた。

傷だらけになって、ヌシ様は、湖を拡げ続けていたんだ。


もしかしたら、ヌシ様は、このために、湖を拡げていたのかもしれない。


僕ははっとした。


あの水をここで全部受け止めるために。

川下の町を守るために。


僕は、あのヌシ様の力になりたいと思った。

その僕の頭のなかに、リョウシュの笛の音色が蘇った。

気持ち悪いって思いながら、昨夜眠る前にさんざん思い出した音だった。


あの、少し、世界律からずれたような音色。

歌にならないあの音が、僕の中で、少しずつ、少しずつ、ずれていく。

そうして、かちり、と、なにか嵌ったような音がした。


僕はゆっくりと笛を吹き始めた。

またヌシ様を怒らせたら困るなとちょっと思ったけど。

大丈夫。そもそも今のヌシ様は、もうぎんぎんに怒っている。


それは、リョウシュの笛の音をずらした歌、だった。

音のないところにも、音を当てはめて歌にした。


すると、ほんの一瞬だけ、ヌシ様がすべての動きを止めた。

まるで、僕の笛の音を聞くように。


その一瞬は、ヌシ様も、雨も、風も、なにもかもが、いったん止まったようだった。


そして、その次の瞬間。

流れるように、歌が溢れだした。


こんなに激しい歌を吹いたのは初めてだった。

どこで息をしたらいいのか分からない。

ろくに息継ぎもせずに、僕はそれでも、吹くことをやめられなかった。


息が苦しくて、今にも気を失いそうだ。

なのに、歌を止められない。

それは、傷つきながら湖を拡げる今のヌシ様のようだった。


水上に飛び出したヌシ様が雄叫びをあげるような仕草をした。


ぴぃぃぃぃぃっ!


僕は一瞬身構えたけど、その声に驚いて思わず、しばらくの間、呆然となった。


そ、っか。ヌシ様の雄叫びも、あの笛のように、少しだけ、世界律からずれていたんだ。


ヌシ様は、新たな力を得たようだった。

ますます激しく、湖を拡げていく。

そして、また叫ぶ。


ぴぃぃぃぃっ!


その声は少しも不快ではなく、いや、むしろ、勇気づけられるようだった。

大丈夫。大丈夫。

なんとかなる。

ヌシ様にそう言われたように感じた。


僕はヌシ様の声に応えるように笛を吹いた。

ヌシ様の声と僕の笛の音とは、互いに絡み合い、補い合うように響いていく。

その歌に、雨や雲も耳をすませ始めた。


僕は雨にも語りかけた。

どうかお願いだから、優しく降って?

周りの雲に語りかけた。

みんな、もっと遠くまで、広く薄く、拡がって。


祈りが届くように、周囲に集まった雲が、少しずつ、少しずつ、遠くへと広がっていく。

真っ暗になるくらい集まっていたのが、ふわふわに、薄く、なっていく。


雨は優しくなって、荒地に降り注いだ。


川下の町には、雨を集めた川が久しぶりに流れを取り戻す。

ルクスに守られながら、町の人たちも、その川を見ている。

アルテミシアに誘導されて、避難してきた人たちも無事に合流する。


遠く遠く、僕らの前にいた村の辺りにも、この雨は降っている。

畑や花壇の花たちが、喜んで葉っぱを広げている。

村人たちも、雨に濡れるのも構わずに、雨の中踊りだす。


災厄は退けられた。







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