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洞穴でごろごろしていたら、突然、大きな声に呼ばれた。
「賢者様!けーんじゃーさーまーーー!」
は、い?それって、僕のこと?
恐る恐る滝のむこうを眺めたら、屋敷で僕らの世話をしてくれていた少女がいた。
「あ、っと、ちょっと、ここ、開けて?」
ダメ元で頼んでみたら、すっと滝の帳が開いた。
僕はその隙間から顔を出して手を振ってみた。
「それって、もしかして、僕のこと?」
「賢者様!大変です!」
少女は滝つぼのむこうからなにか叫んでいる。
だけど、ここだと滝の音が大きくて、何を言っているのかよく聞こえない。
「ごめん~、何言ってるのか、よく聞こえない…」
なんとか聞き取ろうと耳のあたりに手を持っていってみると、ふ、と、滝が、すいっと僕の前に掌を差し出してくれた。
なんだ。これ、夜限定じゃなかったんだ。
なんで今頃?って滝の気紛れにも戸惑ったけど、とりあえず、今はそんなことに関わっている場合じゃない。
僕は有難く掌に乗って、少女の近くまで運んでもらった。
「やっぱり、ここにいらっしゃったのですね?」
それって、なんか、僕、行動パターン、読まれてる?
「…昨夜、君たちに、置いていかれてさ…」
その後のこと、全部説明したものか、ちょっと迷っていたら、少女が先に言った。
「それより、大変なんです。
ルクス様とアルテミシア様が…」
「ルクスとアルテミシアが?
どうかしたの?」
僕は慌てて聞き返した。
「…ご主人様に、捕らえられました。」
「…リョウシュに?」
それってどういう状況なんだろう?
前にアルテミシアが捕まったときは、シヨウニンガシラに牢屋に入れられたけど、後からリョウシュはすんなりと牢屋から出してくれた。
だけど、もう一度、捕らえられた、って…?
「湖で、なにかあったの?」
「詳しいことは分かりません。
昨夜、お二人は、私たちには、これ以上はついてこなくていいとおっしゃって。
私たちとは湖の手前で分かれたのです。
それが今朝になって、縄で縛られたお二人をご主人様は皆の前にお連れになって。
この二人は、賢者を騙る偽物だ。
罰として、湖のヌシの生贄にする、とおっしゃったのです。」
「湖のヌシ?」
って、もしかして、あの魚?
「あの湖にはヌシが棲みついているという噂は、以前から私たちの間にもありました。
けれど、誰もそのヌシの姿を見た者はいません。
ご主人様は、誰ひとり湖に近づいてはならないと厳命なさっているからです。」
なんてことだ。
リョウシュはルクスとアルテミシアをあの魚の餌にしようとしてるんだ!
「大変だ。
助けに行かなくちゃ。」
走りだそうとした僕の襟首を、後ろから少女はひょいと掴んだ。
おかげで、ぐえってなって、僕はそこへ足止めされた。
「なにを、するの?」
けほけほと咳をしながら涙目になって抗議したけど、少女は怖い目をして僕を見据えていた。
「お二人は、あなたを見つけて、ご伝言しろ、と。
ここにいてはいけない。早く立ち去るように、と。」
「立ち去れって?
僕に、あの二人を置いて、逃げろって言うの?」
なにを馬鹿なことを。
そんなこと、できるわけないじゃないか。
けれど、少女の目は、僕の剣幕なんかすっと冷ましてしまうくらいに冷たかった。
「あなたでは敵いません。
どうか、あなただけでも、ご無事にここを立ち去ってください。」
面とむかって、敵わない、とか言われると、はい、すいません、って頭下げそうになるけど。
僕はちょっとお腹に力を入れて頭を上げた。
「敵うとか、敵わないとかじゃないんだ。
そもそもあの二人を置いて逃げるいう選択肢がないだけ。」
僕はそれだけ言って、あとは構わず走り出した。
二人が捕らえられているのは、あの牢屋だろうか。
そっちへ行ってみると、牢屋の入り口には見張りの鎧人が二人立っていた。
物陰に隠れて、どうしよう、って思っていたら、追いついてきた少女が僕より先にそっちへ歩いて行った。
少女が見張りに一言二言、何か言うと、見張りは頷いてどこかへ立ち去った。
見張りがいなくなると、少女は僕にむかってこっちへ来いと腕を振った。
「…もしかして、力を貸してくれるの?」
「あなたおひとりじゃ、どう考えても無理でしょう?」
う。それはその通りなんだけど。
そこまできっぱり言わなくても。
「私も、あなたは逃げたほうがいいと思います。
けれど、その前にお二人に会うくらいはさせてあげてもいいと思っただけです。」
あの。それはどうも、お気遣いいただき、有難うございます。
僕はこっくりと頭を下げてから、牢屋に下りる階段を下りて行った。
何日か前にも入れられた場所だから、中のつくりは分かっている。
牢番の老人は今日はいなかった。
牢屋のなかには、他に捕らえられた人もいなくて、二人は前のときと同じ、一番奥の牢に入れられていた。
「ルクス!アルテミシア!」
格子にすがりついた僕に、ルクスとアルテミシアは驚いて駆け寄ってきた。
「バカ!逃げろって言っただろ?」
ルクスは僕の顔を見るなり、そう言って怒った。
「どうか、逃げてほしい。
君だけでも、無事にここを脱出しなくちゃ。」
アルテミシアはバカとは言わなかったけど、ルクスと同じことを言った。
二人は僕に強く訴えるように言った。
「あのリョウシュは狂ってる。
化け物に憑りつかれておかしくなってるんだ。」
「だけど、早晩、ここは森の水に流される。
君は、屋敷のシヨウニンたちを連れて、逃げるんだ。」
「化け物って、あの、湖に棲んでる大きな魚のこと?」
僕がそう聞き返したら、二人とも、目を丸くした。
「なんで、それを知っている?」
「滝から見たんだ。
昨日、僕はひとりで滝へ行って…」
僕は昨夜見たものの話しをした。
ルクスは、そうか、と唸った。
「湖を堰き止めている原因は、あの化け物だ。
だけど、あいつには、俺の剣も、アルテミシアの矢も、まったく役に立たなかった。」
僕はびっくりした。
「…まさか、戦おうとしたの?」
「あいつをなんとかしないと、湖も元に戻せないだろう?」
「…それは、そうだけど…」
あのとき、僕の笛に怒ったと思ったんだけど。
もしかしたら、魚は攻撃されて怒ったのかな?
僕は、そのことをもう少し詳しく聞きたいと思った。
「なんか、奇妙な笛の音がしなかったかな?
それを聞いて魚が大人しくなった?」
「あれはリョウシュの笛だ。
けど、あのとき、リョウシュが笛を吹かなかったら、魚が大暴れしてこの辺り一帯、水浸しになっていたかもしれん。」
「とにかくあたしたちが騒ぎを起こしたのは事実だから。
あたしたちは大人しくリョウシュに捕まったんだ。」
「リョウシュは、二人をあの魚の生贄にする、って…?」
そう言っただけで、声が震えてきた。
その場面を想像して、僕は、かたかたと小さく震えた。
二人は互いに目を見交わしてから、ごめん、と揃って僕に頭を下げた。
「俺たちはしくじったんだ。」
「君は何もしてない。
だけど、君もリョウシュに見つかったら、あたしたちと同じ目に合わされるかもしれない。
だから、早く逃げるんだ。」
「そうはいきません。」
いきなり聞こえた声に、僕は驚いて振り返った。
そこにはリョウシュが、ぴしぴしという音をさせて、手に持った細い棒でもう片方の手を叩きながら立っていた。




