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リョウシュが僕らに会うと言っているからついてこい。
そう言われて牢屋から連れ出されたのは、もう夕方に近い頃だった。
おかげでおじいさんとはゆっくり話せたけど。
アルテミシアは湖の水を調べていて、見つけた吊り橋に近づいただけだった。
おじいさんによると、その吊り橋は、誰でもいつでも渡っていいものではないらしい。
渡りたいときには、前の日までに申請を出して、許可された時間帯だけ、渡ることを許される。
それがきまりなんだって。
確かに、そのきまりは守ってなかったわけだけど。
それでも、たったそれだけのことで、牢屋に入れるのかな。
吊り橋にそんなきまりがあるのも、湖の水嵩が増しているからだ。
誰も見ていないところで橋を渡るのは危険だから、渡りたい人はなるべくまとめて渡る。
そうすれば、もしも誰かが湖に落ちるようなことがあっても、すぐに助けられるから。
ということらしい。
なるほど。確かにそれは理にかなっている、ようにも思う。
けど、やっぱり、破ったからって、牢屋に入れられるようなことじゃ…
リョウシュに尋ねたら、納得するように説明してもらえるのかな。
けど、僕、直接リョウシュと話す勇気は、…あんまりないな。
牢屋に迎えに来たのは、鎧を着た人たちじゃなくて、僕らの世話をしてくれていた少女だった。
少女には僕らの縄が解かれていたのを見られてしまったけど、あえて何も言わなかった。
少女はリョウシュのところに僕らを連れて行く前に、僕らに水浴びをして着替えるように言った。
少女の用意してくれた盥には、湖の水らしきものが入れてあった。
僕はそこから立ち上る黒い靄にくらくらしたけど、なんとか、ルクスに助けてもらって、水浴びをするふりをした。
今朝たっぷり滝の水を浴びたから、からだはそんなに汚れてはいないと思う。
牢屋には一日入れられていたけど、着ているものを着替えたら、嫌な臭いもしなくなった。
そうして僕らの連れて行かれたのは、朝、食事の用意されていた部屋だった。
とりあえず、リョウシュは僕らを罪人扱いするつもりはないらしい。
なんとなく、そう思った。
大きなテーブルに食事は用意されていたけれど、部屋のなかにリョウシュの姿はなかった。
食べ物からは相変わらず、あの黒い靄が立ち上っている。
なんだか、もったいないな。
せめて、滝の水を使った方がいいって、それだけでも、早く言いたい。
僕らは先に席につかされて、少女がせっせと食事の世話をしてくれた。
有難い、ことなんだけど。
僕は小さくなって、ほんの少しだけ、食べたふりをした。
しばらくそうしていると、リン、とベルの音がして、リョウシュの訪れを報せた。
僕らはいそいそと食事の手を止めて、いったん席から立ち上がった。
一応、礼儀だから。
リョウシュは鷹揚に両手を振ってそれに応えた。
にっこりしているけど、目の奥は笑ってない。
やっぱり苦手だ、この人。
リョウシュが手で合図したので、僕らはまた席に就いた。
僕はせっせと食べているフリをして、リョウシュのほうは見ないようにした。
リョウシュが何か言っている。
僕は必死に聞き取ろうと耳をすませる。
「……イシュゾク……知らない……仕方ない。
きまりは守って……
……みなさんのため……
手荒……シヨウニンガシラ……
……自業自得……」
やっぱり、半分も、何を言っているのか分からなかった。
ルクスは平原の言葉で何か返した。
アルテミシアもそれに続けた。
なんだか、ふたりとも、リョウシュに頭を下げているみたいだった。
ふたりの反応を見て、リョウシュはすごく気をよくしたように笑った。
それから、手を高らかに鳴らして人を呼んだ。
その人は、どこからか、透き通ったカップを四つと、大きな瓶を持ってきた。
カップはリョウシュと僕らの前にそれぞれひとつずつ置かれて。
そこに瓶の中身がなみなみと注がれた。
「仲直りの盃を、どうぞ、お取りください。」
あ。これはなんか、聞き取れた。
そう思ってから、ルクスとアルテミシアをこっそり見る。
ふたりとも、カップを手に取って掲げている。
分かった。そうするんだね?
僕も真似してカップをとった。
「カンパイ。」
リョウシュはそう言うとカップを少し高く上げてから、自分の口に運んだ。
ルクスとアルテミシアもそれに続いた。
僕は口に入れる前に、こっそり飲み物の匂いをかいだ。
うん。これは大丈夫みたい。
あの黒い靄も見えない。
ほんのちょびっとだけ口に入れてみたら、お酒だった。
「初代のころに作られたヴィンテージもの……
……久しぶり……森の民にふさわしい……」
リョウシュはなにやら滔々と解説している。
そっか。このお酒って、ゴショダイサマの時代に作って保管されてたものなんだ。
だから、あの毒の水の影響を受けてないんだね。
僕は安心して、もう少しだけ口に入れた。
飲み干されたリョウシュのカップには、すかさずお酒が注ぎ足された。
立て続けに何杯か飲んで、リョウシュはさっきよりもっとしゃべるようになった。
なにか楽しそうにしながら、リョウシュはまた大きな音を立てて手を叩いた。
すると、今度は、鎧を着た人たちが大勢入ってきた。
鎧人たちは、縄で縛った男の人をひとり、突き飛ばすようにして連れてきた。
あれって、リョウシュの代理、とか言ってた人だ。
なんで、あんなふうにされているんだろう?
リョウシュの代理は、からだのあちこちに怪我をしているみたいだった。
痛そうに足をひきずって歩いている。
それなのに、鎧人たちに、床に突き転ばされた。
なんてひどいことするんだ。
思わず立ちそうになった僕を、横からルクスがぐっと引き留めた。
振り返ると、何もするな、と言うように、僕にむかって首を振ってみせた。
鎧人たちはリョウシュに何か細い木の棒のようなものを手渡した。
それはとてもよくしなる棒で、リョウシュはにこにこと棒をしならせながら、代理に近づいていった。
代理は突然座り直すと、リョウシュの前に這いつくばるようにした。
何か、必死に叫んでいる。
それは平原の言葉だったけど、許しを乞うているんだって、僕にも分かった。
だけど、リョウシュはにこにこと代理に近づくと、容赦なく、棒を打ち下ろした。
ぴしっ、とあたりを切り裂くような音がして、僕はびくっと顔を伏せた。
とても見ていられない。
だけど、見なくても、音だけで、何が行われているのか分かってしまう。
代理は悲鳴を上げた。
何度も。何度も。
アルテミシアは僕を引き寄せて、守るように、胸の中に閉じ込めてくれた。
がたっと音を立てて、ルクスが席を立った。
代理のところへ駆け寄ったルクスに、ちょうどリョウシュの振り下ろした棒が当たった。
けど、ルクスは一声も上げずに、代理を庇うように膝をついて、そこからリョウシュをじっと見上げた。
リョウシュは腹立たし気に、何か叫んだ。
それにルクスは淡々と返した。
どっちも平原の民の言葉だった。
にらみ合いは、しばらく続いた。
と思ったら、急にリョウシュが木の棒を投げ捨てた。
そして、そのまま背中をむけて、どこかへ行ってしまった。
僕は急いでルクスのところへ駆け寄った。
リョウシュの棒はルクスの頬をかすめていた。
細く切れて、そこから血が流れていた。
「ルクス!怪我してる!」
「ああ。このくらい、どってことない。」
ルクスはそう言うと、後ろに庇った代理を見た。
それから、平原の民の言葉で、何か言った。
代理は部屋の隅に影のように控えていた少女に何か言う。
すると少女はいそいそと部屋から出て行った。
「何を、言ったの?」
「アルテミシアの袋を返してくれ、って言ったんだ。
あれには薬が入っているから。手当してやる、って。」
しばらくすると、少女はアルテミシアの腰袋を持って戻ってきた。
アルテミシアはそこに入れてある薬草を使って、ルクスと代理の手当をしようとした。
「俺は後回しにしてくれていい。
それより、傷を洗う水が必要だな。
ちょっと行って汲んでくるか。」
「待って。
水なら、僕が行くよ。」
僕は急いで立ちあがった。
「お前が?
いや、お前にあの崖上りは無理だ。」
ルクスは引き留めようとしたけど、僕は頑なに首を振った。
だって、ルクス、平気な顔してるけど、実は、足、痛めている。
さっきそれに気づいてしまったんだ。
アルテミシアを毒の滝つぼに落としたくない。
それは僕もルクスと同じだった。
「…それに、もしかしたら…
うん。多分、きっと、できる。」
僕はそう言い切って、誰かに止められる前に、部屋を飛び出していた。




