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少し具合がよくなったところで、僕はあの滝のところへ連れて行ってほしいとお願いした。
この部屋で寝ているよりも、あそこにいるほうが、楽になれると思ったんだ。
ルクスはほいほいと了承してくれた。
ちょうど苺を食べてしまったから、また採りに行こうと思ってたんだ、って言った。
すると、アルテミシアは、薬草を補充したいと言い出した。
「ルクス、あの崖をちょっと上って、これとこれを探してきてくれないか?」
アルテミシアは見本になる薬草をルクスに手渡して言った。
ルクスは面倒臭そうに薬草を受け取ると、ちょっと拗ねたみたいに言った。
「ちょっと上って、って、簡単に言ってくれますねえ。
あの崖を上るのはこの俺にも骨が折れるんだが。
へえへえ。姫君。承りましたよ。」
ルクスがそんな言い方するなんて、まだ少し、さっきのこと、引きずってるのかなあ。
「僕がたくさん飲んだせいだよね?
ルクス、ごめんね。」
そう謝ったら、ルクスは、うっ、と詰まってから、いいってことよ!と格好をつけた。
「あの崖、あたしには上れないかな?」
アルテミシアは、真面目な顔をしてルクスに尋ねた。
ルクスは、あー、って顔になってから首を振った。
「いいから、それは俺に任せておけ。
お前だって、そりゃあ、やればできるかもしれんけど。
あの崖の下は、毒の水だ。
万にひとつも、落ちたらシャレにならん。」
そっか。
ルクスはアルテミシアのこと、心配してるんだ。
それに気づいて、僕は思わず、にやにやしちゃった。
そしたら、ルクスに、ちょっと強めに髪をかき回された。
「おい。
行くぞ。」
「あ。うん!」
僕はにやにやが止まらないままついていく。
「あたしはちょっと、湖に行く。」
アルテミシアは僕らの背中にむかってそう言った。
屋敷はそれはそれは広くて、そのせいか、シヨウニン、と出会うこともなかった。
勝手にうろついていたら咎められるかも、って思ったけど、大丈夫みたい。
僕らは難なく、あの滝のところへ行っていた。
「おい。笛を吹いてくれよ。」
滝に着くとルクスはそう言った。
それで僕は、昨夜、部屋で練習しようとしたら、大きな声に叱られたことを思い出した。
ルクスにそう言ったら、ルクスは、ふーん、と首を傾げた。
「けど、今、ここには誰もいないし。
ここで吹いていても、屋敷には聞こえないだろ。」
そうかな?
僕にはここの水音は、屋敷にいても聞こえるけど。
「お前の笛、聞きたいんだ。」
ルクスは僕の目をじっと見て言った。
そんなふうに言われちゃ、断ることなんかできなかった。
「分かった。」
じゃあ、せめて、森の歌にしよう。
あれなら、うるさい、ことはないかもしれないから。
そういえば、あのうるさいって怒鳴った声、今朝聞いたリョウシュの声に似ていた気がする。
いや、まさかね。
リョウシュともあろう人が、怒鳴るなんて、そんな無作法なことするはずない。
僕は首を振って余計な考えを追い払うと、静かに笛を吹き始めた。
「もうちょっと、景気のいいの、吹いてほしかったんだけどな。」
ルクスはちょっとだけ不満そうだったけど、まあ、いいか、と笑ってくれた。
ルクスは僕をそこへ残して、ひとりで崖を上っていった。
掴むところも、足をかけるところも、ほとんどない崖を、ルクスは慎重に上っていく。
その器用さにはつくづく感心する。
僕は、ただ、ルクスが滝つぼに落ちませんように、と祈りを込めて、笛を吹き続けた。
こうして笛を吹いていると、胸の中が、しん、としてくる。
滝の水音と、笛の音だけが、僕の中に満ちていく。
それはこの上なく心地いい感覚だった。
ルクスに頼まれて吹き始めたはずだけど。
気が付くと、自分から望んで僕は笛を吹いていた。
うっすらと開いた目に、滝が見えていた。
滝の形はずっと同じなようで、実はそうじゃない。
次々と形を変えて、そして、二度と、同じ形はないんだ。
それに気づくと、僕は滝から目を離せなくなった。
ほんの一瞬も、滝の変化を見逃したくないと思った。
もうこのまま一生、僕はここで、滝を見続けているかもしれないと思った。
いつの間にか、僕は森の歌ではなくて、滝の変化に合わせて、笛を吹いていた。
僕の吹くのは滝の歌じゃない。
あくまで、主旋律は滝の音。
僕はただ、その滝の歌がより引き立つように、より際立つように、笛を鳴らす。
ルクスの竪琴を思い出した。
アルテミシアの歌は、伴奏がなくても、それはそれは綺麗なんだけど。
ルクスの竪琴が付くと、もうそれは、本当に、言葉には言い表せないくらい、素晴らしいんだ。
僕は、ルクスの竪琴みたいに笛を吹きたいと思った。
今、ここにある、あの素晴らしい滝の音を、言葉に言い表せないくらいもっと素晴らしくできるように。
すると、どうだろう。
形は常に変化し続けていたけれど、滝に流れる水の量は、ずっと同じなはずなのに。
いつの間にか、その幅が、少しずつ、少しずつ、大きくなっていったんだ。
いや、もしかしたら、この滝の上流で、雨が降っているのかも。
僕らの森の沢だって、上流で雨が降ったときには、今ここに雨が降ってなくても、水の勢いが増したりしたものだ。
それにしても、それはよほどの大雨なんだろう。
だって、滝の幅は、ずんっ、ずんっ、と大きくなって…
いつの間にか、崖の周囲に拡がって…
しまった!ルクス!
僕は慌てた。
ルクスは今、崖を上っている最中だ。
僕は大きな声でルクスを呼んだ。
「ルクス!
滝が拡がってる!
危ない!
戻って!」
ルクスは滝の変化には気づいていなかった。
あ?と僕を振り返る。
その瞬間、ルクスのの手が握っていた小さな岩が、ぽろり、とそこから外れて落ちた。
すべては、僕の目の前で、ゆっくりと進行した。
え?と落ちた岩の行方を見るように、下を見るルクス。
その途端、バランスを崩して、狭い足場から片足が滑る。
慌ててルクスはもう片方の手を上げて、どこかを掴もうとするけど。
そこには掴めるものはなにもなくて、ただ、手を振り回しただけだった。
「ルクス!!!」
僕は絶叫した。
下に待ち受けるのは、毒の水だ。
アルテミシアが落ちたらいけない、ってルクスは言ってたけど。
ルクスだって、落ちたら、ただでは済まない。
そのときだった。
ゆっくりと、滝の水が、持ち上がった。
まるで、意志を持った、なにかの生き物のように。
そうして、落ちてくるルクスを、その背中に受け止めると、こっちの岸まで一気に流れ落ちてきた。
ざぶんっ!!
とてつもない量の水を一気に被って、僕は頭からびしょ濡れになった。
それでも、僕は、全身を使って、滝に運ばれてきたルクスを、必死に受け止めた。
「え?
は?
いったい、どうしたんだ?」
ルクスは何が起こったのか分からない、という顔をして、僕をじっと見つめていた。
僕はただ、無事にルクスがこの腕に帰ってきてくれたことだけ嬉しかった。
「よかった。ルクス。よかった。」
僕はルクスの胸に顔を埋めて泣いた。
ルクスは、しばらくは戸惑っていたみたいだけど、少しすると、はあ、助かった、のか?とため息を吐いた。
「しかし、なんだ?この滝は。
不思議な滝だな?」
「ルクスを助けてくれたんだ。
お礼を言わなくちゃ。」
もしかしたら、突然、滝が大きくなり始めたのも、ルクスを助けるためだったのかもしれない。
僕はそれをルクスに話した。
「…滝が、大きく、なった?
そうして、俺を、助けて、くれた?」
ルクスはなんだか、信じられない、という顔をしていた。
「きっと、この崖の上には森があるんだ。
だから、ルクスのことは、森が助けてくれたんだよ。」
そうに違いないと僕は確信した。
だって、ルクスは、森の申し子だから。
「ルクスは、森に守られる人だもの。」
昔、郷にいたころ、そんな話しを聞いていた。
ルクスは小さいころ、何度も森に助けられたんだ、って。
高い木から落ちたときには、蔓がからまって助けてくれた。
迷子になったときには、ヒカリゴケが道を教えてくれた。
そんな逸話を、ルクスはいくつも持っていた。
「やっぱりルクスは、いつか、選ばれし森の王になる人なんだよ。」
選ばれし森の王。
それは、族長のなかの族長だ。
一族ごとにばらばらに暮らす森の民の、すべてを統べる王様。
森の民全員を守ってくれる頼もしい存在だった。
「すごいよ、ルクス。立派だ。」
僕はちょっと眩しくて、目を細めてルクスを見上げた。
ルクスは僕のマントに気づいて、お前、ずぶ濡れだな、と言った。
それから僕らは火を焚いて、僕らの服を乾かした。
僕はまったく中まで全部ずぶ濡れで、服を全部脱がなくちゃいけなかったから、アルテミシアがここにいなくてよかった、って、ちょっと思った。




