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今夜もあのピサンリの友だちの家にお世話になることになった。
二晩もなんて、迷惑じゃないかと心配したんだけど。
僕らが行くと、あの子どもが大歓迎してくれて、子どもがこんなに喜んでいますから、と両親は笑って言ってくれた。
お礼、になるかどうかは分からないけど、夕食の後、アルテミシアは歌を歌った。
森の褒め歌。森を祝福するときに僕らの歌う歌だ。
ここにある幸せが、ずっとずっと続きますように。
そういう祈りの歌だ。
僕は、あの祭りのときに聞いた、この町の人たちの歌を土笛で吹いた。
そうしたら、夫婦も、それから、まだうまく口の回らない子どもも、声を合わせて歌ってくれた。
この歌は、昔、この町が拓かれたとき、家や道路を作りながら人々が歌っていた歌なんだ、って教えてもらった。
この町の人たちは、元々は余所の土地からやってきたんだそうだ。
平原のもっと中央。
平原の民の王様の棲む大きな街から。
彼らを導いたのは、初代のリョウシュだった。
皆の棲みやすい楽園のような土地へ。
リョウシュは彼らを励まし、統率して、この地へ導き、この町を作り上げた。
川の恵みのあるこの地はとても豊かで、棲みやすい場所だった。
ここへ移り棲んだ人々は、皆とても幸せになった。
そして、ここへ皆を導いたリョウシュにとても感謝した。
だから、川のうんと上流にある綺麗な湖の畔に、大きな屋敷を建てて、それをリョウシュに贈ったんだ。
リョウシュは町の豊かさの大元である水源を永遠に守ると誓って、代々その地に棲んでいる。
そっか。だから、この歌には、皆が力を合わせて大きな仕事をやり遂げる、そんな感じがするんだ。
そして、その未来に、きっと大きな幸せが待っている、って。
そういう希望まで感じられるんだ。
この歌を聞くと、歌を歌いながら力を合わせて働いた人たちの幻が見える気がする。
この町の人たちにとっての魂の歌なんだ。
楽しい夜も更けて、みんな寝床に就いた。
翌朝。
やっぱり僕の隣に、子どもが潜り込んでいた。
今日はちょっと覚悟してたから、昨日のようには叫ばずに済んだ。
だけど、出発のときは大変だった。
子どもは絶対に離さないとばかりに僕の足にしがみついて大泣きした。
なんでここまで気に入られちゃってるのか、ちょっと謎なんだけど。
湖の調査には、どれくらいかかるか分からない。
もしかしたら、しばらく帰ってこられないかもしれない。
その雰囲気を、子どもは敏感に悟ったのかな。
今回は、ピサンリは一緒には行かないことになっていた。
最初、ピサンリ自身は、当然のように一緒に行くつもりだったみたいだけど。
旅の森の民が、何も知らずにうっかり迷い込んだ。ふりをするつもりなんだから、平原の民がいちゃまずいだろう、というわけだ。
ルクスにそう言われたピサンリは、絶望的な顔をして、僕を見た。
「なんてことだ。
このわしがついて行けんとは…
よいかな?くれぐれも…
お腹を出して寝てはいけませんぞ?
道に落ちているものを、拾って食べてはいけませんぞ?
転ばないように、足元はよく見て歩き…」
いや、あの、大丈夫だよ?
僕はいったいいくつの幼児だ。
くどくどと言い続けるピサンリを、僕はちょっと呆れて見た。
「大丈夫だよ、ピサンリ。
ルクスもあたしもついている。」
そう言ったアルテミシアを、僕は大急ぎで振り返った。
いや、だから、アルテミシア。
君まで僕を子ども扱いするのはやめて。
僕、拾い食いなんかしないし。
お腹、出して寝るのは、僕じゃなくてルクスのほうが心配でしょ。
「馬と馬車のことは頼んだぞ?
俺たちは、川を渡って、もっとずっとその先へ行くんだからな?」
ルクスにそう言われて、そうじゃった、とピサンリはけろっと元の顔に戻った。
「こんなところでいつまでも足止め喰らっとるわけにはいかん。
とっとと川に水を戻し、舟を出しましょうぞ。」
そう言ってぐっと拳を突き上げる。
僕も、おう!と同じポーズをした。
そしたら、僕の足にしがみついていた子どもが一緒になって、おー!と手を上げた。
一瞬の隙をも見逃さない子どもの母親は、ひょいと子どもを抱き上げてしまった。
う、うわあああん!
泣いて暴れても、お母さんは離さない。
ごめんね?
僕はせめて笑って手を振った。
なるべく早く、帰ってくるよ?
そう思ってから、はっとした。
ここももう、僕にとっては、帰ってくる、ところなのか。
夫婦は、大泣きする子どもを宥めつつ、笑って僕らに手を振ってくれる。
言葉は通じないけど、僕はせめて感謝と親愛の気持ちを込めて、精一杯笑って手を振った。
旅の荷物はほとんどない。
食料も水袋も置いてきた。
川の傍には野生の草や木の実もたくさんあるだろうし。
道々、それを採って食べたらいい。
って、あれ?これって、拾い食い?
水はもちろん、湖に行くんだから、持って行かなくったって大丈夫だろう。
一応、ルクスは狩刀だけ腰につけて、アルテミシアは小弓を背負っているけど。
僕なんか、笛だけ首からぶら下げて、あとは手ぶらだ。
あとはすっぽりと全身を覆うマントは着て行く。
そんなに長くかかることもないだろうと高を括っているところもあった。
湖までは半刻も歩けば着くそうだし。
馬に乗って行けばもっと早いんだけど、アルテミシアも僕も、ひとりじゃ馬に乗れない。
ルクスも流石にふたりは乗せられないから仕方ない。
だけど、歩いたって大したことない距離だ。
ちょこっと湖を調べて、原因さえ見つけたら、すぐに戻る。
正直、日帰りでも十分だろうって思ってた。
うまくやれば、誰にも見咎められないうちに、原因を見つけられるかもしれない。
湖には一応、見張りがいるらしい。
見つかったら、ちょっと、厄介かな。
まあ、そのときは例の、旅の森の民で、云々をやるだけなんだけど。
川沿いの道を歩くのは、苦にはならなかった。
お天気もいいし。
まだそこまで暑くもない季節だ。
だけど、川原の草は、ちょっと枯れかけていて、あんまり美味しい草もなかった。
やっぱり、水がないせいかな。
家並みは途切れて、町の外に出ても、川の水のない状態は変わらなかった。
上流の湖までは川の水がないって聞いたけど、本当にそうだ。
川底のどろどろは、町の外に出ると少しマシになった。
この辺りにはものを捨てる人がいないからだろう。
だけど、ほんのちょびっと残っている水は濁って、やっぱりちょっと嫌な臭いをさせていた。
川沿いに歩けばいいから、道に迷う心配もない。
いざとなったら、僕らは一食二食、抜いたってそう問題もない。
帯をちょっときゅっと締め直して、先へ進むだけ。
上流に行けば行くほど、川幅は狭くなった。
すると、少しずつ、水があるようになった。
流れている、とはとてもいえない。
ちょっとした水たまりみたいな感じ。
しばらく歩くと、大きな湖が見えてきた。
嘘みたいにそこにはたくさんの水がある。
きらきらと陽光を反射する湖は、とても綺麗だった。
「こんなにたくさん、水はあるんだ。」
なのに、湖から流れ出しているはずの川には、水が流れてこない。
まるで、湖の出口に栓をして、水を流さないようにしているように。
リョウシュの屋敷は湖のほとりにあるって言ってたけど、ぱっと見た感じ、家のようなものは見当たらない。
湖の周りには大きな樹木や草木も茂っているから、それに隠されているのかもしれない。
ここの木や草は立派に茂って、見違えるくらいに元気だった。
湖のむこうには、高い崖が見えていた。
崖から細く綺麗な滝が流れ落ちているのが見える。
あれが湖の水を供給する水源なのだろう。
と、そのときだった。
突然、頭のなかに、キェーッ、というとてつもない音が響き渡った。
うっ、と思わず耳を抑えてうずくまる。
今のはなんなんだろう?
きょろきょろと辺りを見回すけれど、音の源のようなものは見当たらない。
本当に、聞いたことのない音だった。
どこか獣の鳴き声に似ている気もするけど。
いや、あんな声で鳴く獣なんか、見たことない。
と、もう一度、キェーッ、という音が聞こえた。
さっきよりも、格段に大きく。
僕は音を遮断しようと必死に耳を抑えた。
それでも、音は、割り込むように僕の頭のなかに響いてきた。
う…くっ…
ふっ、と何か、途切れた気がした。
そのまま、僕は気を失っていた。




