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その夜。
夕食を終えた僕らは焚火の周りで食後のお茶を飲んでいた。
ピサンリは、食事、とか、お茶、となるとこだわりが強いようで、今日のお茶は寝付きのよくなる香草のお茶にほんのり甘い焼き菓子がついていた。
夕食もわりときっちり食べた後だから、お腹はすいていないはずなのに、この焼き菓子は入ってしまうのがいつも不思議だった。
ほろほろと崩れる焼き菓子と格闘していると、ルクスは馬車から自分の荷物を取り出してきた。
あの、郷からずっと持っている、一番大事な物を集めた荷物だ。
そこからルクスは、あの本を取り出すと、ピサンリの前に差し出した。
「お前にもやっぱり、これは見せとかないと、と思って。」
そっか。ピサンリにも、とうとうこの秘密を話すんだ、と僕は思った。
アルテミシアは興味なさそうに、ただぼんやりとお茶をすすっていた。
ピサンリは、ほう?と言って本を見ると、ほう!と目を輝かせた。
「これは、魔導の書、じゃな?
懐かしいのう。」
「なんだ、お前、これを知ってるのか?」
ルクスはちょっと驚いたみたいだった。
ピサンリは、うむ、と頷いた。
「じいさまの家にもあったからのう。
綺麗な紋章がたくさん載っとるじゃろう?
ああ、これ、赤い火、の紋章じゃ。」
ピサンリはぱらぱらと本をめくると、そこの頁を開いて見せた。
「結局、わしはこれしか覚えられんかったが。」
それから、ルクスの顔を見上げて、はっとした顔になった。
「もしかして、賢者様は、これを全部、習得なされたのかの?」
流石じゃあ、と明るく拍手するピサンリを、ルクスは、奇妙な生き物でも見たような目をして見ていた。
「ちょっと、待て。
これは、世界に三つしかない、貴重な書物なんだろ?
それを、ピサンリは読んでいたのか?
というか、じいさまの家にあった?
いったい、そのじいさまは、何者なんだ?」
混乱したように呟くルクスに、ピサンリはにこにこと首を振った。
「読んではおらんよ?」
「は?
けど、じいさまの家にあった、って…
もしかして、じじいはこれを、お前には見せなかったってことか?
なるほど、貴重な本だしな。
子どもには触らせなかったか…」
「じじいは失礼だ、ルクス。」
てっきり何も聞いていないかと思っていたアルテミシアが、ぼそっと言った。
あ、とルクスは口を押えた。
「じいさまは、わしがその書を眺めておっても、好きにさせてくれとったよ。
貴重な本じゃったとは、知らんかったわい。」
ピサンリはけろっとして言った。
「いや、だけど、さっき、お前、読んでない、って言わなかったか?」
「読めんかったからのう。」
「ピサンリって、本を読むのが趣味だったよね?」
僕は思わず口を挟んでいた。
確か、村にいたころ、ピサンリの家には本がいっぱいあった。
僕は平原の民の言葉は分からないけど、ピサンリの本で勉強して、文字は少しは読めるようになったんだ。
「そうじゃ。
しかし、この書の文字は、わしには読めん。
なにせ、旧い旧い文字じゃからのう。」
「旧い、文字?」
「千年は経っとるそうじゃよ?」
「千年前の文字は、読めないのか?」
ルクスは意外そうに尋ねたけど、僕も奇妙だと思っていた。
「読めんじゃろう。
それに言葉遣いも、今とは全然違っておる。
よほど、古文書の解読に長けた者でなければ、普通は読めんよ。」
「こもんじょ…?なんだそれは?」
ルクスは首を傾げた。
「平原は、千年前と今とでは、文字や言葉が変わってしまっている、ということかな。」
アルテミシアが淡々と説明してくれた。
ルクスはそんなアルテミシアをまじまじと見て聞き返した。
「そんな、変わるか?
たかが千年程度で?」
「現実に、変わった、という事実は、ここにあるな。」
アルテミシアは少し退屈そうに言って、お茶をすすった。
「なにより、そんなに変わっているから、君にもこれが読めなかったんじゃないか?
君はもう、平原の言葉も文字も、問題なくすらすらと使いこなしているだろう?」
ルクスは、呆然、と書いてあるみたいな顔を、僕のほうへむけた。
「なあ、文字なんて、そんな簡単に変わっちゃいけないよな?」
「うーん、どうかな?
その辺は平原には平原の事情?とかあるのかもしれないし?」
僕は笑って曖昧に言葉を濁した。
確かに、僕ら森の民の言葉は、千年くらいじゃ、そんなには変わらない。
変わってたら、長老と話したりできないじゃないか。
文字も、あんまり使わないけど、千年前からほとんど同じだ。
変わらないからこそ、いいんじゃないかって僕らは思うんだけど。
それは、僕ら森の民の事情なんだろう。
「いや、そんなことよりさ。」
僕は話しを強引に戻した。
「ピサンリはこの本のこと、なにか知ってる?」
「なにか?と言われても、じいさまのところにあった、ということくらいじゃが…」
ピサンリは記憶を探るように宙を見上げた。
「じいさまは紋章の研究をしておったし、これ以外にも紋章の描いてある本はたくさんあった。
わしにも読めるものもあったから、そっちは読んでみようとはしたのじゃが。」
「読んだのか?」
勢い込んで尋ねるルクスに、ピサンリはちょっとからだを引いた。
「いや。読むには読んだが、難し過ぎて、さっぱり、内容は覚えておらん。」
ちっ。
ルクスは盛大に舌打ちをした。
こら!ルクス!とまたアルテミシアに叱られた。
「いいんじゃない?
これから僕ら、そのおじいさんに会いに行くわけだし。
そこに本がある、っていうなら、ルクスも見せてもらったら。
それにルクスからおじいさんに直接、質問もできるじゃないか。」
「まあ、そうか。」
ルクスはまだちょっと不満そうだったけど、一応、納得したみたいだった。
ルクスってちょっとせっかちなところあると思う。
すまんのう、とピサンリは申し訳なさそうに言った。
「謝ることはない。
それに、そのご老人に会う期待も増したというものだ。
これは、なんとしても、あの川を越えて、先へ行かないとだな。」
アルテミシアは宥めるようにピサンリに言った。
「そうだ。まずはあの川だ。」
ルクスは気合を入れるように言って、ふん、とひとつ鼻息を荒く吐いた。
それからなにやら馬車のほうへ行って、ごそごそとやり始めた。
「さてと。
あたしももう一働き、するか。」
そんなルクスを見たアルテミシアも、ルクスを追いかけて馬車のほうへ行ってしまった。
ピサンリとふたり、火の傍に残った僕は、ピサンリに、あの本を見つけて旅に出たことの経緯を少し話した。
これでもう、ピサンリに秘密にしないといけないことは何もない。
そう思ったら、とても嬉しかった。
「ずっと、黙ってて、ごめんね?」
「いやいや。
世界を滅ぼすほどの秘術の書いてある本、と言われれば、そう簡単に、誰にでも打ち明けられぬのは当然じゃ。」
ピサンリは笑ってそう言ってくれた。
「それに、わしを危ないことに巻き込むかもしれない、と思うてくれたのじゃろう?」
「うん。
いやもう、それは、実際にこうして一緒に旅に出て、巻き込んじゃってるよね?」
いきなりあんな瘴気の町があったり、盗賊に襲われたり。
このところの災厄を指を折って数えだすと、ピサンリはからからと笑って僕の手を抑えた。
「なんの。こんなのまだ序の口じゃて。
けど、わしは賢者様方の従者じゃもの。
皆さまのことは、ちゃんとお守りいたしましょうぞ。」
ふん、と胸を張ってみせる。
僕は、よろしくお願いします、と頭を下げた。
「従者、じゃなくて、仲間、だけど。
きっとこれからも、ピサンリに守ってもらうことはたくさんあると思う。
僕も、ピサンリみたいに強かったらよかったんだけど。
今度よかったら、少し僕にも、その、護身術?とか、教えてくれないかな?」
「護身術かの?
むいとらんことは、あんまりせんほうがよいような気もするのじゃが…
まあ、最低限のことは、知っとってもええかのう。」
ピサンリはちょっと考えてから、分かった、と頷いた。




