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幌で包まれた馬車の上は薄暗くて、おまけに風も通らなくてすごく暑かった。
すっぽりと頭からマントも被ってるからなおさらだった。
ルクスはアルテミシアと僕の周りに腕で空間を作ってくれていた。
「息、できてるか?」
「うん。なんとか。」
アルテミシアと僕が頷くと、そうか、とだけ言って、黙ってしまう。
ルクスだって、ずっと腕を上げたままで辛いんだと思った。
「僕のことは大丈夫だから。
ルクスはアルテミシアのことだけ、気にしてあげて?」
「あたしなら問題ない。
それより、ルクス、君は自分のことを心配しろ。」
アルテミシアの苦笑するみたいな声が聞こえる。
「さっきから、君の汗が、あたしに降ってくるんだが。」
「うわ。そりゃ、ごめん。」
ルクスが焦って謝るのが聞こえて、アルテミシアと僕はくすくす笑い出した。
ちょっと笑ったら、さっきより少し、楽になった。
どうやら息が苦しかったのは、窮屈なことより、緊張してからだが固まっていたせいだった。
「町って、まだまだ遠いのかなあ。」
もう結構、馬車に揺られてる気がするんだけど。
まだ町の気配のような物音はしない。
もうしばらく馬車に揺られた。
僕はもう何も考えないようにして、ただひたすらじっとしていた。
かたことと揺れる馬車。きしきしいう車輪の音。
ときどき、かつん、と何か弾いて、ちょっとだけ馬車が変な揺れ方をする。
それすらも、延々続いて、そのうちにうつらうつらしかかったときだった。
「…なんか、臭い…」
嫌な臭気を感じて、思わずそう呟いていた。
「え?
あ、ごめん。俺か?」
慌てたように隣でルクスが自分の腕を上げてくんくん匂いを嗅いだりしてたけど。
「違うよ。ルクスじゃない。」
そう言ったのはアルテミシアだった。
「…これは…、なんだろう…、嗅いだことのない臭いだ。」
僕は確かめようと、もう一度その臭いを吸って、うっ、と顔をしかめた。
けほけほとから咳も出た。
思い切り吸ったのは、大失敗だった。
「う。臭い。なんだ、これ。」
「本当だ。臭い。」
ルクスも辺りの臭いを嗅いで、顔をしかめた。
「しっ、しゃべるな。」
アルテミシアは僕らにむかって、唇に指を立ててみせた。
そうだった。
僕らも慌てて、自分たちの唇に指を立てた。
けど、なんだろう、この臭い。
とてつもなく臭い。
いったん臭いと思ったら、もうどうしようもなく、臭い。
息をしているのも辛くなる。
外に出て深呼吸したいけど。
今は我慢するしかなかった。
と、またしばらくして、馬車が止まったのを感じた。
ピサンリが何か言って、それに返す平原の民の言葉も聞こえた。
「…舟は、出ない…と言っているな。」
ルクスは僕のために通訳してくれた。
「え?舟が出ない?」
びっくりした僕の口をしっ、とルクスは塞ぐ。
外ではピサンリと誰かがしばらく話していたけれど、少しして、馬車はまた動き出した。
今度はしばらく止まる気配もなかった。
「…舟には、乗らないのかな?」
声を潜めてルクスとアルテミシアに尋ねたけれど、どっちも何も答えなかった。
馬車はまたずっとごとごとと動き続けた。
もういい加減、この状況にも疲れたなあ。
あー、腰が痛い。
そんなことを考えているうちに、今度は本当に眠ってしまったらしい。
気が付くと馬車は止まっていて、隣にいたルクスとアルテミシアがいなくなっていた。
驚いた僕は飛び起きると馬車から外に這い出した。
いつの間にかもう夕方になっていて、外では小さな焚火の前でピサンリが食事の支度をしていた。
「おや。目が覚めたかのう?」
スープをかき混ぜながらのんびりとこっちを振り返ったピサンリを見て、なんだか、ものすごくほっとした。
「ここは?」
「今朝、お茶会をした辺り、じゃのう。」
僕は一瞬、今日一日の出来事は全部夢で、お茶会の途中で居眠りをしてそのまま寝ていたんじゃないかと思った。
いや、そんなわけ、ないか。
「町の近くは瘴気が濃うて。
賢者様方にはキツかろうと思うてのう。
結局、こんなところまで戻ってきてしもうた。」
ピサンリはそう言ってため息を吐いた。
「しょうき?」
「感じんかったか?
ほら、昼間、町へ行ったときに。」
「あの、嫌な臭いのこと?」
「そうじゃ。」
ピサンリは頷いてから、自分の服の臭いをくんくんと嗅いだ。
「わしの着物にも、染みついてしまったようじゃ。
後で着替えるしかないか。
しかし、洗濯もいつできることやら。」
ふう、とピサンリはため息を吐いた。
「…ルクスと、アルテミシアは?」
僕は辺りを見回して尋ねた。
二人の姿は辺りには見当たらなかった。
「水場を探すと言うて行かれたが。
どうかのう。
この辺りの水場は、もうほとんど使えんのではないかのう。」
ピサンリはやれやれと首を振った。
「早いとこ川を渡ってしもうたら、むこう側は大丈夫じゃないかと思うたのじゃが。
いきなりここで足止めされてしもうた。」
「足止め?」
それって、僕ら、この先へは進めないということだろうか。
というか、ここって、まだほとんど村から離れていない。
「いっそ、いったん、村へ帰ろうか?」
ピサンリはにこにことこっちを見た。
「いや、それは、しない。」
いきなりピサンリの言葉を遮ったのはルクスだった。
ルクスとアルテミシアは空の水袋をひとつ下げて、こっちへ歩いてきた。
「やっぱり、水場は全滅だった。」
「…やはり、のう…」
ピサンリはため息を吐いた。
「噂には聞いておったのじゃ。
しかし、舟も動かんとは思わんかった。」
「川の水が少なすぎる、って言ってたか?」
ルクスの質問にピサンリは頷いた。
「この季節はまだ、川の水が干上がるなんてことはないはずなんじゃが。
どうにも。渡し守も首を傾げておった。」
「川の水が少ないと舟は出せないの?」
「水がないと舟は浮かばんからのう。」
ピサンリはちょっと笑って言った。
「でも、水がないなら、歩いて渡れるんじゃないの?」
「川をか?
いや、それは、流石に。
わしもちょっと見てきたが、どろどろの川底が見えておって、あそこを歩くなんてのはとてもとても…」
ピサンリはいやいやと首を振った。
「たとえば、いったん村に戻って、荷物をもっと少なくして、背負えるものだけ背負って川を渡る、ってのは?」
アルテミシアは僕の言いたかったことを言ってくれた。
だけどそれに答えたのはルクスだった。
「あの瘴気のなか、重い荷物を背負って、深いところじゃ背丈ほどもある、どろどろの水の中を歩く、というのは、あまり現実的とは思えないな。」
そっか。
僕もアルテミシアも黙ってしまった。
「さてと。
まずは、腹ごしらえをするとしよう。
腹が減っては戦はできぬ…」
ピサンリは歌うように言いながらスープをお皿にとりわけ始めた。
「べつに戦はしないけどね。」
僕もピサンリを手伝いながら、なんだか今朝も似たようなことを言っていたなあと思っていた。




