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赤の賢者様が盗人を罠にかけて、罰を与えた。
どこからかそんな噂が村中に広まったのは、それからすぐだった。
いったい、誰がそんな噂を広げたのか、分からない。
もちろん、僕ら自身がそんなことを吹聴なんてしてない。
だけど、どこかの誰かが、善意か悪意か、それを誰かに報せて。
あっという間に、皆に知れ渡ってしまった。
罰を与えたわけじゃなくて、あれは、触れると怪我をする罠を仕掛けてあったのだと、僕らは訂正したけれど。
大した違いはない、と言って、あまり効果はなかった。
それに対する村人の反応は、真っ二つだった。
よくやった、すっきりした、悪者め、ざまあみろ。
そう言って怪気炎を上げた人々と。
術を使い人を傷つけるルクスを、恐ろしい、と敬遠し始めた人々と。
ルクスのことを支持したのは、一緒に井戸を掘ったり、白枯病の森へ行っていた人たちが多かった。
あの雪のなかで一緒に遭難しかかった人たちもいた。
彼らは以前からルクスのことを頼りになるリーダーのようによく言っていた。
いつかこの村の村長に、とまで言う人もいた。
もっとも、ルクスにはそのつもりはまったくなかった、と思う。
共に力を尽くし、苦難に当たり、そして乗り越えた。
彼らの間には、なんというか、一種の強い連帯感のようなものがあった。
そして、その中心にいるルクスのことを、彼らは手放しで褒めちぎるのだった。
彼らは、ルクスの周りに集まって、威勢のいいことを言っていた。
あの罠を野菜畑にも全部、仕掛けよう。
そうすれば、誰も、村の作物に手を出したりはしないだろう。
彼らは毎晩集まってはお酒を飲んで、気勢を上げた。
けれど、それはそれで、そういった類のことを苦手とする人々からは、ますます敬遠される原因にもなっていった。
そして、そうやって騒ぎ立てる人たちとは裏腹に、ルクスから離れて行った人たちもいた。
森の民の秘術、というものを、彼らは恐ろしいと感じたらしかった。
そしてその術を使って人を罰するルクスという存在を。
何かの用で、ピサンリと村のなかを歩いていたとき、ふと、道端の親子の会話が耳に入った。
やんちゃ盛りの幼児とその母親、といった感じで、言うことを聞かずに走り回る我が子に、母親は手を焼いている最中だった。
よくある平和な光景だと見過ごして、そのまま通り過ぎようとしたときだった。
「そんなに言うことを聞かないと、赤の賢者様に罰を与えられるよ?
両手を焼かれてしまうんだよ?」
ええっ、と驚いた子どもは、立ち止まって不安そうに母親の顔を見上げる。
母親は顔をしかめたまま我が子に言った。
「怖いよ。両手が血だらけになるんだ。
ほら、だから、言うことをお聞き。」
怯えた顔をして頷いた子どもの手を引っ張って、母親はどこかへ連れて行ってしまった。
だけど、僕はその場に立ち止まったまま、一歩も歩けなかった。
「大丈夫かの?」
心配したピサンリが静かに声をかけてくれて、ようやくちょっと我に返った。
だけど、さっき耳に飛び込んできた言葉は、ずっと胸に突き刺さったまま、固い棘のように抜けなかった。
「母親が言うことを聞かん子どもを脅すのは、よくあることじゃ。」
ピサンリは慰めるように言ったけど、それを聞いても、心に刺さったままの言葉は抜けなかった。
「…ルクスはあんな小さい子に罰を与えるようなことはしないよ。」
ようやく言えたのはそれだけだった。
「もちろんじゃとも。」
ピサンリは、当然、というように頷いてくれたけど、それでも、僕の心は軽くはならなかった。
ルクスは、幼い子どもが言うことを聞かなくても、叱ったりしない。
むしろ気がすむまでやらせておくか、なんなら、自分も一緒になってさんざんふざけてから、後から一緒に叱られてくれる人だ。
本当に危ないことだけ、子どもがやらないように、こっそり傍にいて守ってくれる人だ。
だって、僕が小さいころ、いつもそうだったんだから。
僕と二人並んで、アルテミシアにさんざん叱られながら、見えないようにこっそりぺろっと舌を出して笑ってみせた。
ルクスって、そんな人だったんだ。
なのに、そんな恐ろしい罰を与える存在、のように言われるなんて…
僕は、本当のルクス、のことをみんなに話して回らなくちゃ、って思った。
すごくすごく強く思った。
だけど、じゃあ、誰に、どんなふうに、話せばいいんだ?
怖い人じゃない、って僕が言ったら、きっと、みんな、はあ、そうですか、って答えるだけだ。
だけど、本当に心の底から、怖い人じゃない、って、分かってくれる人は、どれだけいるだろう。
ルクスは、怖い人だ、と思われてしまったんだ。
あの、たった一回で。
いや、たった一回、じゃなかったのかな?
もしかしたら、もうずっと、ルクスのことを、なんとなく不気味な怖いやつ、って思いかけてた人たちもいて、その人たちの背中を、あの盗人の件が、もうどうしようもないあちら側に押しやってしまったんだ。
畑全部に罠を仕掛けたらいい、なんて言われたけど。
実際には、ルクスはもう、罠なんて仕掛けていない。
もっとも、その噂のおかげか、あれから畑に作物泥棒は現れていない。
あのとき、ルクスはアルテミシアと言い争いをしたけど。
やっぱり、術を使って人を傷つけることは、いいことだとは思っていないんだ。
僕はそう思いたかった。
森の民の秘術は人を傷つけるためのものじゃない。
アルテミシアはきっぱりとそう言った。
それは、僕もそう思う。
そもそも僕らは、争い事の苦手な一族だ。
もしも、何かのきっかけで、誰かと争わなくてはならなくなったとしても。
可能な限り、争いを避けて、その場から立ち去る。
それが、僕らにとっての、一番いい解決法なんだ。
畑の罠だって、ルクスには罰を与えるというよりも、近づかないようにさせたかっただけだと思う。
あそこに使われていたのは、赤い炎だ、ってルクスは言った。
多分、ルクスは、その炎は、人を傷つけないって思ってたんじゃないかな。
だって、僕ら、白枯森に行ったとき、誰も、怪我はしなかったんだもの。
あの炎は、無事な森には決して手を伸ばさない火なんだもの。
もしかしたら、ルクスだって、あのとき、盗人が傷ついたことに驚いたんだ。
だから、あのとき、僕と一緒に、畑の入り口で立ち竦んでいたんだ。
アルテミシアに責められて、思わずあんなふうに言ってしまったけど。
ルクスにだって、傷つけるつもりなんか、最初からなかった。
だけど、ルクスは怒っていた。
ルクスは誰より、村の人のことを大切に思ってるんだと思う。
そんな大事な人たちのことを傷つける者に対しては、ルクスは怒っていたから。
ルクスは、そんなふうにこの村の人たちのことを大切に思ってる。
なのに、村の人たちからは、恐れられてしまって。
ひどい、って村の人たちに言うのは違うけど、だけど、やっぱり、ルクスは…
怖い人なんかじゃない。
気が付くと、僕はべそべそと泣きながら、ピサンリ相手にそんなことを話していた。
ピサンリは、もっともじゃ、ふむ、もっともじゃ、と頷きながら、僕の背中をずっと撫でてくれていた。
そんなことがあってから、僕は館の外にはあまり行かなくなった。
元々、僕はあまり外には行かないほうだったし。
毎日ピサンリは館にいろいろ持ってきてくれるから、外に行かなくても困ることはない。
畑の世話だけして、毎日が静かに過ぎていく。
僕にとっては、今はそれが一番だった。
ルクスとアルテミシアは、どこかへ出かけていたみたいだけど。
どこへ、何をしに、行っているのかも、もう僕は何も知らない。
そんなある日。
久しぶりに全員揃った夕食の席で。
また唐突に、ルクスは、俺は、旅に出る、と宣言した。
どこへ行くのか。何をしに行くのか。
アルテミシアは、そういうことを、一切聞かなかった。
ただ、ふうん、と言ったきり、黙々と食事を続けた。
そしてそそくさと食べ終えると、淡々と部屋を出て行ってしまった。
怒ったのかな、と一瞬思ったけど、様子を見に行ったら、いきなり旅支度の整った荷物をどさりと持ち出してきた。
いつの間に、これ、用意してたの?
僕が目を丸くしたら、ちらっとだけ笑った。
「君の支度は?
手伝おうか?」
「あ。うん。お願い。」
僕が頷くと、一緒になってアルテミシアの部屋を覗きにきていたルクスが、ちょっと待て、と引き留めた。
「お前は、無理に来なくてもいい。
ここに残ってもいいんだぞ?」
ルクスは僕の目を見て、ゆっくりと言った。
「お前は、ここの連中ともうまくやっていってるし。
ピサンリだって、いる。
俺たちもいない方が、お前にとってはいいかもしれない。
このまま、ここに残れば、いいんじゃないか?」
その後の自分の反応には、僕自身もちょっと驚いたんだけど。
僕の目にはじわっと涙が溢れてきて、そのままぼろぼろと止まらなくなった。
「俺たちがいない方がいいなんて、なんで言うの?
そんなわけないだろ!」
その言葉は、僕の心の中をからっぽにした。
全部全部、大事なもの、取り上げられたみたいだった。
僕は恨めしさ全開の目でルクスを見上げた。
「…おいて、行くの?
僕だけ、置いて、行くの?」
「い、いやいやいや、置いて行ったりしないとも!!」
慌てて宥めるルクスは、小さいころからよく知ってる優しいルクスだった。
「…僕、足手まといだって、分かってる。
だけど、一緒にいたいんだ。
ずっと、三人一緒だって、約束したじゃないか。」
「あ、うん、そうだな?
約束したとも。
いや、足手まといだなんて、思ってない。
お前はさあ、俺たちのなかでも一番優しいし、気を遣えるやつだから。
なんか、俺、いっつも、自分の都合で振り回してるみたいな気になって…
お前のこと、傷つけてるんじゃないか、って心配なんだ。」
「だったら、置いて行くなんて言わないで。
それがいっちばん、ひどいよぉ。」
こんなの、ダダを捏ねてる子どもみたいだ。
だけど、今は、ルクス相手にダダをこねているのが、妙に心地よくもあった。
なんだかルクスにこんなふうにできるのは、すごく久しぶりな気がした。
「あ?ああ!うん、そうだな。
そうだとも。うん。もちろん。
それが一番、ひどいな。
俺が悪かった。
悪かったから、泣き止んでくれ。」
おろおろするルクスの前で、僕も涙を止めたかったけれど、涙は振り払っても振り払っても溢れ続けていて、どうしても止まってくれなかった。
なんだかいろんな気持ちが、全部涙になって溢れだしたみたいだった。
「ぐすん…僕だって…ぐすん…泣きたくなんか、ないのにぃぃぃ…」
「おい、アルテミシア、笑ってないで、お前も、何か言ってやれよ?」
ルクスはお手上げだって顔をして、アルテミシアに助けを求める。
アルテミシアは、近づいてくると、僕とルクスをぎゅっと抱きしめて、大丈夫、と言った。
「ずっと三人、一緒に行こう。」
「おう!当然だ。」
アルテミシアの言葉に強く頷くルクス。
僕はそのふたりの腕のなかに顔を埋めて、何度も何度も頷いた。




