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その夜のことだった。
真夜中。
とてつもない悲鳴に、僕は飛び起きた。
人の声とは思えない、獣のような叫び声だった。
月のない暗闇のなか。
僕は恐る恐る寝室を出て、声のしたほうへ行ってみた。
最近じゃ、アルテミシアもルクスも、みんなそれぞれ、生活のペースは違ってしまっていたから、いつの間にか寝室もひとりずつ分けていた。
館にはそれだけたくさんの部屋があったし、そのほうが互いに気を遣わなくてよくなっていたんだ。
僕は毎日たっぷり寝ないとからだの疲れが抜けなくて、体調を崩してしまうし。
ルクスは、好きなだけ起きて本を読んだり、調べ物をしたりして、切りのいいところまでやってしまわないと、よく眠れない、って人だったから。
寝室を出ると、ちょうど歩いてきたルクスと出会った。
「さっきの声、聞いた?」
「薬草畑のほうじゃないか?」
そっか。やっぱりルクスも聞いたんだ。
夢じゃなかったのか、と思った。
そこへアルテミシアも合流した。
アルテミシアは手に小さな明かりを持っていた。
ルクスはアルテミシアの手から明かりを取り上げると、僕らにむかって言った。
「お前らは建物の中にいろ。
俺がちょっと様子を見てくるから。」
だけどアルテミシアは、素早くルクスの手から明かりを取り返して、いや、と首を振った。
「ルクスひとりじゃ危険だ。
あたしたちも行く。」
僕はどうしたものかな。
行ったらまた足手まといかも。
そんなこともちょっと考えたけど、アルテミシアも行くなら、僕も行かなくちゃ、と思った。
アルテミシアはそのまま有無を言わさずにすたすたと歩き始めた。
ルクスは小さなため息を吐いたけど、それ以上は何も言わず、ただ、アルテミシアよりは前に出た。
僕は、アルテミシアの後ろにくっついて、静かについていった。
薬草畑は館の庭の一画にある。
獣の悲鳴のような声は、やっぱりそっちのほうから聞こえていた。
何か、赤い、光のようなものも見える。
ちっ、とルクスが小さな舌打ちをした。
「…なんだろう、あれ…?」
僕が光のほうを指差して尋ねたのと、ルクスが駆けだしたのとはほぼ同時だった。
有無を言わさずアルテミシアも駆けだしていた。
僕もあわててついていった。
僕らはほぼ三人固まって、薬草畑に駆け込んだ。
するとそこに、両手を真っ赤に染めて、呻き声をあげながらうずくまっている男がひとりいた。
「…あれは?」
僕は恐ろしくなって、畑の入り口で足を止めた。
ルクスも僕と同じところで立ち止まっていた。
ただ、アルテミシアだけは、躊躇いもなく男に近寄っていった。
「…その手、ちょっと見せてみろ。」
男は平原の言葉でなにか呟きながら呻いていた。
その男の手を掴んで、アルテミシアは引き寄せた。
抵抗しようとした男に、今度はアルテミシアは平原の言葉で、何か言った。
けれど、男は激しく手を振り回して、アルテミシアを振り払おうとした。
すると、今度は、ルクスが走って行って、男に厳しく何か言った。
男は呆然とルクスの顔を見上げた。
それから、少し大人しくなって、アルテミシアの前に手を差し出した。
男は両手にひどい怪我をしていた。
「水と清潔な布をたくさん、持ってきてくれないか?」
アルテミシアがこっちにむかって言うのを聞いて、僕は急いで館に引き返した。
見ず知らずの男とはいえ、あんなひどい怪我をしているのに、ほうっておくことはできないと思った。
だけど、こんな真夜中に、こんな場所で、こんなひどい怪我をするなんて。
いったい、何があったんだろうって、思った。
僕が戻るまでの間に、アルテミシアは男の手の怪我の具合を調べていたようだった。
ルクスはそのアルテミシアの横に立って、まるで守護するかのように、じっと、アルテミシアと男の様子を見守っていた。
アルテミシアはとても注意深く男の手を扱っていたけれど、それでも、ときどき、男は呻き声や泣き声を漏らしていた。
男は両手にひどい火傷を負っていた。
まるで、燃え盛る火を、素手で掴んだかのようだった。
男を見下ろすルクスの瞳は、冷ややかだった。
いや、それは、まるで凍り付きそうなくらい冷たい目だった。
そこには、静かな怒りと、それから、侮蔑が込められていた。
アルテミシアは薬草畑の薬草を摘むと、水を混ぜてよく揉んで布に伸ばした。
それから、その布を、丁寧に男の手に巻きつけていった。
「…そんなやつ、手当してやる必要なんか、ないのに。」
ルクスは不満気にアルテミシアに言ったけれど、アルテミシアは治療の手を止めようとはしなかった。
「そいつがそんな目にあったのは、自業自得だ。
薬草を盗もうとしたんだから。」
ルクスはアルテミシアにむかって続けて言った。
アルテミシアはルクスのほうは見ずに、静かに言った。
「罠を、仕掛けたのか?」
「盗もうとするやつが痛い目にあうようにしておいただけだ。」
「森の民の秘術は、誰かを傷つけるための術じゃないだろう?!」
アルテミシアはルクスを睨みつけた。
こんなふうに怒りをあらわにするアルテミシアを、僕は初めて見た。
けれど、ルクスはそんなアルテミシアにも動じた様子はなく、淡々と返した。
「赤い炎は、悪いモノしか焼かない。そういう火だ。」
ふたりは無言のままじっとにらみ合った。
僕はふたりに何を言ったものかとおろおろした。
ルクスとアルテミシアの喧嘩なんて、見たことなかった。
アルテミシアは、いっつも、ルクスのやることだから仕方がない、って言って、ちょっと苦笑いして済ませていたし。
ルクスは、アルテミシアが本気で怒りそうなときには、すぐにそれを改めていたから。
「…森の民の秘術を、こんなことに使うなんて…」
先にそう呟いて目を逸らせたのはアルテミシアだった。
だけど、ルクスはアルテミシアを睨んだまま、続けて言った。
「ほうっておけば、こいつらはますます他人のものを盗む。
お前は、村の連中が困っていても、ほうっておけと言うのか?」
「…そうは、言わない…」
「じゃあ、どうしろって言うんだ?
こいつだって、盗みなんかしなけりゃ、赤い炎に焼かれることもなかった。」
「…森の民は、むやみに他の生き物を傷つけることはしない。
それが掟だ。」
「そんな掟、盗人相手には当てはまらない。」
このまま何をどれだけ言ったところで、ふたりとも納得できる答えには辿り着けないだろう。
それより、ふたりが互いを責め合うようなことにはしたくない。
僕は急いでふたりの間に入った。
「もう、やめよう。
ルクスも、アルテミシアも。
僕らが喧嘩することじゃないよ。」
僕に視線を遮られたルクスは、僕のことをじっと見つめたけど、何も言わずに、いきなり背中をむけると、ぷいとどこかへ行ってしまった。
すると、アルテミシアは、小さなため息を吐いた。
「…ごめん。君はとばっちりだ。」
そのときだった。
アルテミシアに手当をされていた盗人は、ルクスがいなくなるなり、いきなり立って逃げようとした。
まだ手当の途中だったアルテミシアは、慌てて引き留めようとしたけど、力づくで振り払われた。
僕もアルテミシアと一緒に盗人を落ち着かせようとしたけど、無駄だった。
「…あーあ、逃げて、行っちゃった、ね…」
盗人の去った後を見て、アルテミシアと僕はため息を吐いた。
「まだちゃんと、手当していなかったのに…」
アルテミシアは悲しそうに呟いた。




