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真ん丸だった月が次第に細くなって。
新しく生まれた月が、また真ん丸になっても。
僕らは仲間に追いつくことはできなかった。
どっちに行ったか、その方角すら分からない。
真っ直ぐに進み続けていても、もしかしたら、こっちの方角じゃないかもしれない。
そう思っては引き返す。
そんなことをしているうちに、日にちだけ、どんどん過ぎて行ってしまった。
もうこれは、追いつくなんて、無理なんじゃないかな。
僕らみんな、そう思っていた。
だけど、なかなか、もうやめようって、諦めようって、誰も言い出さなかった。
僕らみんな、疲れていたんだと思う。
だから、いつも誰より慎重で、危ないことなんかしないアルテミシアも、毒虫を触ったりしてしまったんだと思う。
あ、という小さな叫びが聞こえて、振り返ると、ゆっくりとアルテミシアが地面にしゃがみ込むのが見えた。
先を歩いていたルクスは、僕より先にアルテミシアに駆け寄っていた。
「どうした?」
ルクスはアルテミシアを抱え起こすと、その顔を覗き込む。
「ごめん。しくじった。」
アルテミシアは毒虫に刺された手を差し上げて見せた。
その手には毒虫のとげとげがいっぱいに刺さっていた。
びっくりするくらいに腫れあがって、みるみる紫色に変わっていった。
地面には、いっぱいとげとげのついた毒々しい色をした虫が、慌てて逃げようとしていた。
ルクスは虫を踏み潰そうとしたけれど、アルテミシアが、だめだ、とちょっと強く叫んだ。
「…虫に罪はない…
ただ、そこにいただけ。
あんなに派手な色をして、危険を報せているのに。
うっかり触ったこっちが悪い。」
「…しかし…」
憎たらし気に虫を睨んでいるルクスに、アルテミシアは弱々しく続けた。
「それより、棘、抜いてもらって、いい?」
あ。そうだった。
僕も急いでひざまずくと、そっとアルテミシアの手に刺さった棘を抜き始めた。
「気を付けて。自分の手を刺さないように。」
アルテミシアは心配そうに僕に言った。
「お前は危ないから、手を出すな。」
ルクスも眉をひそめて僕に言った。
「大丈夫。僕、こういうのは得意。
それに少しでも早く、抜いたほうがいい。」
僕は棘を抜きながら言った。
確かに、とルクスは言って、もうそれ以上、僕を追っ払おうとはしなかった。
なんとか棘は全部抜いたけど、体に入ってしまった毒はまだ残っていた。
「誰か、毒消し、持ってない?」
僕はルクスとアルテミシアの顔を見回した。
けど、二人とも力なく首を振った。
あの毒虫は、本当に派手な色をした、いかにもな毒虫で、うっかり触るなんてこと、よっぽど小さなころならともかく、流石に今はもう、あり得なかった。
だから、その薬は、持ってきていなかった。
だけど、あの毒虫の毒はちょっと特殊で、その辺の薬草を揉んで貼っておくというわけにもいかなかった。
こうしている間にも、みるみるうちに、アルテミシアの唇は青紫色になっていく。
かたかたと小さく震えていて、熱も上がってきたみたいだった。
くそっ、と突然、ルクスは吐き捨てるように言うと、いきなり持っていた荷物を全部投げ出した。
そうして、アルテミシアを背負って歩き出した。
「ルクス?どうするの?」
「郷に帰る。
あそこなら薬くらいあるだろ。」
ルクスは振り返りもせずに言った。
「…でも、この荷物…ここに置いて行くの?
全部、大事なものなんじゃ…?」
僕らは遠いところまで旅をするために、本当に大事なものだけ選んで荷物を作った。
だから、これは、ルクスにとっては、どうしたって置いて行けない大事なものばかりのはずだった。
「アルテミシアより大事な物なんか、ない。」
ルクスはきっぱりと言い切ると、アルテミシアを背負っているとも思えないほどすごいスピードで走り始めた。
僕は置いて行かれないようについて行くだけで必死だった。
ルクスの背に負われたアルテミシアは、もう口をきく元気もないようで、ただぐったりと目を閉じていた。
一刻も早く薬を使って、静かに休ませる必要があった。
戻ってきた郷は、あの日、出発したときのまんまだった。
一度、土笛を取りに戻った、あのときのまんまだった。
「毒消しなら、うちにある。」
僕は自分の棲んでいた家へと急いだ。
ルクスは何も言わずについてきた。
僕の使っていた寝台に、ルクスはアルテミシアを寝かしつけた。
その間に僕は薬箱を漁って、毒消しを見つけてきた。
「アルテミシアを見ていてくれ。
俺は、水を汲んでくる。」
ルクスは村の共同の水汲み場である泉へと水を汲みに行った。
その間に僕は暖炉に火を入れ、カップを探し出してきた。
アルテミシアはぐったりと目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
顔も手足も、服に覆われていないところはすべて、紫色に染まっている。
多分、服のなかもきっと、紫色に変わってしまっているだろう。
僕は毒消しの粉をカップにあけて、ルクスが水を汲んでくるのを待っていた。
毒消しは水に溶いて飲む薬だった。
だけど、今のアルテミシアに、ちゃんと薬を飲むことはできるんだろうか。
僕はただ心配だった。
どうしたって、毒消しは飲まなくちゃいけないんだけど。
そうしないと、もしかしたら、命にだって関わるかもしれないんだけど。
毒消しは乾燥した粉だったけど、とてつもなく苦い匂いがした。
うんとうんと小さいころに、一度だけ、飲まされたことがあったけど。
とんでもなく苦かったことは、鮮明に覚えている。
今も匂いを嗅いだだけで口のなかに唾がわいてきていた。
水を汲んできたルクスは僕の手からカップを取ると、水差しから慎重に水を注いだ。
水が多すぎると飲む量も多くなって大変だし。
少なすぎると、飲み込めない。
そのちょうどいい塩梅に、ルクスは水を入れると、ゆらゆらとカップをゆすって、薬を十分に水に混ぜた。
それから、いきなりそれを、ほんの一瞬の迷いもなく、自分で飲んだ。
「え?ルクス?」
一瞬、ルクスが何をしたのか分からなかった。
確かに、とても苦い薬で、アルテミシアに飲ませるのは可哀そうかもしれないけど。
それでも、薬ってのは、自分で飲まないと、効かないよね?
僕がそんなまぬけなことを考えている間に、ルクスは寝台のアルテミシアの鼻をいきなりつまんだ。
息ができないアルテミシアが、ぽっかりと口を開く。
そのアルテミシアの上にルクスは屈みこむと、口移しに薬を飲ませた。
そっか。
そうするつもりだったのか。
いい考えだと思った。
僕には到底思い付けなかったけど。
こくり、とアルテミシアの喉が動く。
よかった、ちゃんと薬を飲めたんだ。
「もう大丈夫だ。」
顔を上げてルクスはちょっと笑った。
あの毒虫にアルテミシアが刺されてから、初めて見たルクスの笑顔だった。