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その日はそのまま館へ逃げ帰り、ベットに潜って、震えていた。
ピサンリはとても心配そうにしていたけれど、無理やり僕に話しを聞こうとはしなかった。
温かいお粥を作って持ってきてくれたけど。
僕は何も食べられなかった。
お粥はそのまま冷えて固くなってしまった。
夕方、帰ってきたルクスとアルテミシアは、ピサンリから事情を聞いたみたいだった。
アルテミシアは、前とは違う薬湯を用意して持ってきてくれた。
ルクスは、あえて特別なことは何もしなかった。
一晩中、僕は一睡もできないで、そのまま布団をかぶって震えていた。
真っ暗闇のなか、自分の心臓の音だけ、嫌というほど聞こえていた。
前は、こうしていても、どこかから、木の歌が聞こえていた。
それはずっとそうだったし、これからもずっとそうだと思っていた。
思い付く限り、小さかったころから、ずっと。
どうして、聞こえなくなっちゃったのかな。
思い付く理由は、ひとつしかなかった。
森を、焼いた、から。
森を傷つけた僕には、もう、彼らの歌は聞こえないんだ。
絶望…
郷の仲間たちに置いて行かれたときも、とても辛くて苦しかったけど。
あんなのは、今のこの気持ちに比べたら、全然、軽かった。
木の声が聞こえなくなることが、こんなに辛いなんて…
もう僕は、森の民じゃなくなったのかもしれない。
森は、もう僕に、その歌は聞かせてはくれないんだ。
僕は、森を、焼いたのだから。
暗闇のなかで、ぐるぐる、ぐるぐる、と、そんなことを考え続けた。
吐き気がしたけど、吐くものはなかった。
ふ、と。
窓から、月の明りが差し込んできた。
月の光は、枕元にあったテーブルの小さな水差しに当たっていた。
きらきら…きらきら…
水差しの水が輝く。
僕はその光につられて、思わず、水差しへと手を伸ばした。
カップに注いでも、水差しの水はきらきらと光り続けていた。
僕は、思い切って、その水を一息に飲み干した。
からだのなかを、ひんやりとした心地よい感覚が下りていく。
ふぅ、とひとつ、息を吐いた。
耳をすませても、やっぱり、世界はしんとしていた。
僕が今飲んだ水には、僕が握りつぶしたあの薬草が煎じてあった。
あれほどひどいことをしたのに、薬草は、僕のからだを癒してくれていた。
薬草を煎じてあったのは、あの森の水だった。
はらはらと涙が落ちる。
森はもう、僕に背をむけてしまったけれど。
僕はもう、彼らの声を聞くことはできないけれど。
それでも、彼らは変わらずに、僕を癒してくれるんだ。
心を研ぎ澄ませ、耳をすませた。
すると、ほんのかすかにだけれど、小さな小さな声が聞こえた。
大丈夫。
まだ、聞こうとすれば、聞こえている。
その歌を忘れないようにしようと、僕は笛を取り出した。
夜のなかに、僕の笛の音が、響いていた。
翌朝早く、ピサンリが食べ物でいっぱいの籠を持ってやってきた。
ちゃんと寝ていないのか、ピサンリの目はちょっと赤かった。
「明け方にのう、お前様の笛の音が聞こえた気がしたのじゃ。」
「えっ?
まさか、そんな遠くにまで聞こえたの?
もしかして、うるさかった?」
ピサンリの寝不足の原因はもしかして僕の笛?
びっくりして尋ねたら、ピサンリは、ちょっと笑った。
「もしかして、本当に、吹いとったんか?
夜中に笛を吹くと、蛇が出るぞ?」
「蛇はもう冬眠してるよ?」
「いや、そうではなくての…」
ピサンリは、さっきよりもうちょっと元気に笑った。
「ここで吹いておっても、流石に、わしの家には聞こえん。
わざわざわしの家に来て、窓辺で吹き鳴らし、でもしとったなら話しは別じゃが。」
「流石に、いくら僕でも、そんなことは、しないよ?」
「それは分かっておるよ。」
ピサンリはまたちょっと笑った。
「多分、気のせいじゃ。
夢かもしれん。
ただ、お前様の笛の音が聞こえた気がしたんじゃ。
それはそれは、よい音色じゃった。」
「…そっか。」
よい音色、と言われて、ちょっと嬉しかった。
「わしはのう、お前様の笛の音が好きなんじゃ。」
ピサンリはにこにこと言った。
「また元気になったら、吹いてくだされや。」
「うん。」
そんなことなら、いつだって、と思った。
その日は少しだけど、ピサンリの作ってくれたご飯を食べた。
ルクスとアルテミシアはその日もどこかへ出かけていた。
ふたりは毎日、とても忙しそうだ。
僕ひとり、休んでばかりいて、ちょっと申し訳ない気になった。
「いつまでも、めそめそしてるわけにはいかないよね。」
畑に行くのはとても恐ろしかったけど、畑の作物は世話をしてあげないと弱ってしまう。
僕が畑に行くと言うと、ピサンリは心配して止めようとしたけど、僕は強引に、大丈夫と言い張った。
「たとえ声が聞こえなくても、彼らの具合はある程度、目で見て分かるよ。
だから、お願い。行かせて。」
とうとうピサンリは根負けして、僕と一緒に畑に行ってくれた。
僕は昨日引き千切ってしまった薬草を真っ先に調べた。
幸い根っこはまだ無事に残っていて、気をつければそこから再生できそうだった。
「…ごめんね…ごめんね…」
僕は何度も謝りながら、根っこの周りを整えて水をかけた。
応えは返ってこないけど、周りの仲間の薬草たちが風もないのに軽く揺れて、なんだか、こんな僕のことを慰めてくれたみたいだって思った。
その日は一日中、ピサンリと畑の世話をしていた。
僕の寝込んでいる間にも、ピサンリは畑の世話をしてくれていて、それはほぼ完璧だった。
「畑には、慣れておりますじゃ。
薬草も野菜も、そう変わりませんからのう。」
僕がピサンリの仕事を褒めると、ピサンリはちょっと照れたみたいに笑った。
「ピサンリって、草の声は聞こえないのに。
草の気持ちはちゃんと分かるんだね?」
「この村には、草の声の聞こえる者はおりませんが。
みぃんな、畑作りは上手じゃのう。」
そうだった。
ここの村の人たちは、草の声は聞こえてないんだ。
だけど、ここの花の草も、みぃんな元気だし、幸せそうだ。
僕はなんだか、ちょっと元気になれそうな気がした。




