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そこに近付くにつれて、僕らは次第に無口になった。
気持ちが重く苦しく沈んでいく。
もし、残留思念のことを知らなければ、なんでそんなことになっているのか、見当もつかなかったに違いない。
朝の目覚めはすっきりしていたし、食事もしっかり、体調は万全。
だったはずなのに、森を歩いていたら、いきなり、そんなふうになるんだから。
もし事情を知らずに、ここに迷い込んでたとしたら、なにか、毒でも吸い込んだのかな、とか思ったかも。
いや、残留思念に染まったエエルは、もしかしたら、毒みたいなものなのかもしれないな。
その辺りは、一見、普通の森だった。
明るくは、ない。
居心地は、最悪。
だけど、どこがどう、悪い、ってこともない。
普通の、日陰の森。
でも、生き物の気配はない。
虫の羽音も、鳥の声も、聞こえない。
ときどき、風は吹いてくるけど。
どことなく、べたべたした感じの風だ。
生き物たちは本能的にこの森は避けているんだろう。
僕自身も、ここにはもうこれ以上いたくない、ってずっとそう感じている。
多分、これも、僕自身の本能。
だけど、行かないわけにはいかない。
だから、足を引きずって、歩き続けた。
ここの森は、歌ってはいなかった。
ただ、低く、ぅぅぅぅぅ…という唸り声が響いている。
聞きようによっては、それは、歌?に聞こえないこともない?こともない?
いや、あれはやっぱり、歌、じゃない。
アルテミシアは僕らを先導して歩いていた。
道は、アルテミシアが分かっている、って言っていたから、そこはもう、お任せだ。
じゅうぶんに左右に気を配り、一歩一歩、足元を確かめながら歩いていく。
ときどき振り返っては、僕らに目で合図をしてくれる。
今はもう、僕より小さいその背中が、とても頼りがいのあるものに見えた。
ブブは、僕の前を、ときどき立ち止まりそうになりながらも、足を引きずるようにして歩いていた。
だっこしてあげたいけど、そうすれば、ブブに、しなくてもいい無理をさせるかもしれないと思って、僕はあえて、そうしなかった。
立ち止まりたければ、立ち止まってもいい。
逃げたければ、逃げたっていい。
僕は、そう思いながら、前を歩くブブの後を、ゆっくりとついていった。
だけど、ブブは、どんなに立ち止まっても、また次の一歩を踏み出し続けた。
とにかく、居心地は最悪だった。
日差しは何かに遮られて、どんよりと暗い。
だけど、懐の中だけぽかぽかと温かくて、そのぬくもりが、僕に力を与えてくれていた。
そこには、アニマの木の主にもらった葉っぱが入っていた。
この葉っぱの助けがなければ、もう早々に、僕は引き返していたかもしれない。
ただ、葉っぱの入った懐を、そっと手で抑えると、そこからふわふわと力が伝わってきて、そのふわふわの力を借りて、僕はなんとか次の一歩のために、足を持ち上げていた。
そうやってしばらく進んだ。
進めば進むほど、ますます足は重くなった。
あとはもう、進まなくちゃという意志だけで、次の一歩を踏み出した。
ふいに、僕は、辺りを埋め尽くす唸り声が、ぅぅぅぅぅ、から、変化しているのに、気付いた。
あれは、なんだ?
なんて、言っているんだ?
かすかに、途切れ途切れの言葉を聞き取ろうと、僕は耳をすませた。
だけれど、それと同時に、これを聞いてはいけない、と心のどこかから警告されているのも感じた。
そんな場合じゃないもの。仕方ない。
僕は警告をねじ伏せて、声を聞いた。
………………ぃ………………ぃぃ………………わぃ………………
………い………っわ………………っわぃ……………こわ、い………こわい!
その言葉を聞き取った瞬間、唐突に、言葉は僕の頭の中にがんがんとこだました。
こわい!こわい!こわい!こわい!こわい!こわい!こわい!こわい!こわい!
呼吸が速くなる。
心臓が早鐘のように打っている。
耳を抑えて何度も深呼吸をした。
それでも、頭の中に響く言葉は、消せなかった。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い。
ここにある残留思念が、どんな気持ちかなんて、考えるまでもなかった。
恐怖。
とにかく、恐怖。
ひたすらに、恐怖。
とてつもなく大きな恐怖が、渦を巻いて、その一帯を覆い尽くしていた。
そうだ、確かに、ブブも言っていたじゃないか。
こわい、って。
僕らのいるのは、その渦のほんの端っこで、だから、僕はまだ、ぎりぎり、その恐怖に呑まれずに済んでいるけれど。
思念の渦は中心に近付けば近づくほど、濃く、重くなっていって、もしこれ以上先へ進めば、おそらくその渦に巻き込まれて戻ってこられないに違いなかった。
「アルテミシア!止まって!」
一番後ろから、僕はそう叫んだ。
アルテミシアは、僕より少し先を行っていた。
つまり、それだけ、渦の中心に近いってことだ。
今も黙々とアルテミシアは、進み続けていた。
僕の声にも振り返らなかった。
多分、アルテミシアも、ここで止まっちゃいけない、進み続けなきゃ、って意志だけで、動いているんだ。
だけど、今はむしろ、足を止めるべきときだ。引き返すべきだ。
僕の目には、この恐怖に囚われたアルテミシアが、その場所に崩れて落ちる幻が見えた。
だけど、次の瞬間、それは幻に過ぎなかったのが分かる。
その幻こそ、恐怖に囚われた僕の心が生み出したものだった。
僕は目をこすって、もう一度アルテミシアを見た。
アルテミシアは、まだちゃんと立っていて、足を一歩まださらに前に踏み出そうとしていた。
???まだ、さらに、足を、一歩、前に、踏み出そうと、している?
「だめだ!!!アルテミシア!!!」
恐怖のあまりもう一度叫んだ。
喉が裂けて、鋭い痛みと血の匂いがした。
自分の金切声に、誰より自分自身が、さっきよりもっと大きく恐怖を感じた。
何かをすればするほど、ますます逆効果だ。
悪循環の渦に飲み込まれていて、何をしても、ここから脱け出せないと思った。
だめだ、このままじゃ、僕の心もからだも、恐怖に呑まれて、囚われる。
だけど、アルテミシアを置いて逃げ出すなんて、できない!
「アルテミシア!!!!!」
どうして、気付いてくれないんだ。
こんなに大声で呼んでいるのに。
まるで、水の中のように、目の前の景色が、もったりと重くなる。
からだが重くて、足も上らない。
ねっとりとしたゼリーにからだじゅうを囚われたように、動きはひどく鈍くなった。
いや、このゼリーの中じゃ、息すら、まともにできなくなっていった。
「あ、る、てみしあ…」
絞り出す声も、かすれて、こんなんじゃ、このゼリーの中、聞こえるはずもない。
…だめだ…
絶望。
その言葉が頭の中を過ぎる、ほんの寸前、だったと思う。
しゃん、と突然、涼やかな鈴の音が、頭の中に響いた。
その鈴の音は、魔法のように、僕の周囲のゼリーを溶かした。
僕は急いで胸いっぱい息を吸って、それから、問答無用で、目の前のブブとアルテミシアの腕を掴んだ。
あとは、一目散に引き返す。
説明は後だ。
アルテミシアはちょっと驚いた目をしたけど、僕の動きには逆らわなかった。
ブブは虚ろな目をしていて、気を失う寸前だったみたいだ。
僕は、何も言わず、ただ、走った。
とにかく、ここから少しでも遠くへ行かなくちゃ。
それだけ、考えていた。
ふたりとも、普通に走ったら、僕より足は早い。
最初こそ、僕がふたりの手を引っ張って走ったものの、気が付くと、僕は両方からブブとアルテミシアとに引っ張られて走っていた。
あれ?
ちょ、ちょ、ちょ、待って?待って待って待って!
足が、もつれるもつれるもつれる…
僕の悲鳴もなんのその。
ふたりは、走る走る走る。
僕は、とにかく、転ばないように、せっせと足を動かすことにだけ、集中した。
そうやって、僕らはなんとか、そこから逃げだした。




