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アニマの木のところでひと休みした後、アルテミシアたちは、先へ行こうとした。
けれど、そこから少し歩いたところで、突然、ブブは立ち止まった。
「こう、目を見開いて、からだじゅう、ぶるぶると震えていた。
どうしたのか尋ねても、ただ、首を振るばっかりで。
手を引いて行こうとしたら、行きたくない、怖い、って言った。」
そんなブブをルクスは抱え上げて連れて行った。
ブブは暴れて抵抗しようとしたらしいけど。
ルクスの力にはかなわなかったんだと思う。
「歩き続けると、少しずつ、森が薄暗くなっていった。
闇の壁に近付いている証拠だと案内人は言った。
ただ、アニマの木に寄り道をした分、案内人の言う道からは少しそれていたらしい。
気が付いたら、彼らも経験したことのないくらい、闇の壁に近付いてしまっていた。」
闇の壁の調査をすることが目的なんだから、それは、間違ってはいないはずだ。
だけど、どうしてか、僕は、それはしてはいけないって思っていた。
「そして、とうとう、闇の壁は姿を現した。
唐突に、ぽっかりと、目の前に現れた感じだった。
あんなに大きなものなのに、こんなに近付くまで気付かなかったことが不思議だった。」
森という場所は、あまり見通しのいいところじゃない。
だけど、もしかしたら、その壁を、森は、あえて、隠して、いたかもしれない。
「この目で、それを見た瞬間、あたしたちも、分けも分からず、ただ、怖い、って感じた。
その場で足がすくんで、引き返すことも、呼吸することすら、忘れてしまったようだった。
ただ、前にも後ろにも、一歩も歩けなかった。
イヤな匂いがしていて、気分が悪くなって吐きそうだった。
なのに、逃げだすことすら、できなかった。」
話しを聞いていて思い出した。
以前、オルニスと馬で荒野を渡ったとき。
僕も、そんな感じになったことがなかったろうか。
もしかしたら、あれに似た感じなんじゃないだろうか。
「少しずつ、歩こう、足を前に出そう、とする気力も失われていった。
立っているのすらやっとで、もしなにか、強い風でも吹けば、そのまま倒れて、二度と立ち上れないと確信していた。」
そんなこと確信している暇があったら、逃げるべきだ。
と、今、安全な場所にいる僕は思うけれど。
そんなことはもちろん、ルクスやアルテミシアも分かっているわけで。
つまりは、そういう思考すら失わせられるような状況だった、というわけだ。
「そのとき、突然、ルクスが、熱い、って叫んで、抱えていたブブをとり落としそうになった。
なんとか、ぎりぎり、あたしが受け止めたけど。
ブブのからだは、触ったら火傷するほどに、熱かった。」
アルテミシアは、そう言ってから、両手のひらを僕に見せた。
それは赤くはれて、ところどころに水ぶくれもあった。
「これは、大変だ。」
僕はあわててアルテミシアの手を取ると、治癒の魔法をかけた。
みるみるアルテミシアの火傷は治っていく。
それを見て、僕は尋ねた。
「アルテミシアも治癒は使えるよね?
どうして、すぐに治さなかったの?」
僕の口調は少しアルテミシアを責めるようになってしまったかもしれない。
だって、あの火傷は、かなり痛かったと思うんだ。
そんな痛みをアルテミシアがずっと我慢していたなんて、なんだか、気持ちが苦しくなった。
アルテミシアはきれいに治った手を眺めて言った。
「君に、ちゃんとこれを見せなくちゃ、って思って。」
「見せなくても、話しをしてくれればいいじゃないか。」
「いや。見てほしかったんだ。
これは、ブブがあたしたちを救ってくれた証なんだから。」
救ってくれた証。
僕は、胸の中で眠るブブを見た。
ブブはさっきよりまた少し楽そうになって、ぷぅぷぅと奇妙な寝息を立てながらよく眠っていた。
アルテミシアは、ずれ落ちかけた手拭を取って濡らし直すと、ブブの額に置いてくれた。
それから、そっとブブの髪を撫でた。
「あのとき、ブブがそうやって正気を取り戻させてくれなかったら、あたしたちは、あの場から動けずに、そのままどうなっていたか分からない。」
アルテミシアは静かに話を続けた。
「ルクスの火傷は、あたしよりもっとひどかった。
流石にそれをそのままにはしておけなかったから、すぐに治療した。
だけど、ルクスは、一言も、痛いとは言わなかった。
ただ、ブブを見て、ものすごく、しょんぼりしていた。」
さっき、ブブを連れて帰ってきてくれたのもルクスだった。
ルクスは黙って僕にブブを引き渡してくれたけど。
そういえば、いつもの元気は欠片もなかった。
僕は腕の中のブブを見た。
それから、感謝の気持ちを込めて、そっとその背中を撫でた。
君は、僕の大切な人たちを、守ってくれたんだね?
ブブは知らん顔をして眠っている。
今はただ、疲れたからだを癒そうとしている。
こんな小さなからだで、精一杯やってくれたんだと思うと、気持ちが溢れ出して、僕は思わずぎゅっと抱きしめてしまった。
そしたら、ちょっと窮屈だったのか、ブブは小さく身じろぎをした。
慌てて腕を緩めると、ブブは僕の胸に顔をこすりつけて、そのうちに自分の寝心地のいいところを見つけたのか、そのまままた、すやすやと眠り始めた。
隣でそれを見ていたアルテミシアは、小さく笑った。
「ブブもアルボルも、君の小さかったころに、どこか似ているんだよ。」
アルテミシアはしみじみと言った。
「小さく頼りなくて、何かと手のかかる印象なんだけど。
実はあたしたちより先にいろんなことを分かっていて、結局、あたしたちは助けられている。」
「ブブはそうだと思うけど。
僕は、そんなに立派なものじゃないよ。」
僕は思わず苦笑した。
「だけど、ブブが頼りになる、ってのは、僕はものすごくよく知ってる。
前に、もっと小さな虫の姿をしていたときから、ブブは、何回も僕を助けてくれたよ。」
あのころは、僕はまだブブと話しをすることはできなかった。
おっちゃんは話してたから、それがうらやましかったっけ。
だけど、今のブブとは話せる。
こうして、ぎゅって、抱きしめられる。
それを、とても、嬉しい、って思った。
「ブブは気紛れに見えるかもしれないけど、おバカさんじゃないんだ。
ブブにはブブにしか分からない何かを感じ取って行動しているんだと思う。
だから、この先、ブブと一緒に何かするときには、ブブのこと、無理やりどうこうはしないでほしい。
ブブは、ブブの一番大事だと思うことをしているから。」
アルテミシアは僕の言うことにいちいちうなずいてくれた。
「君の大切な友だちを勝手に連れて行って酷い目に合わせた。
本当にごめん。」
アルテミシアは謝ってくれたけど、それには僕は小さく首を振った。
「それはちょっと違うよ。
ブブはね、もう、僕だけの友だちじゃない。
ルクスもアルテミシアも、多分、ブブにとっては、大切な友だちなんだよ。」
アルテミシアはちょっと目を丸くして、それから、優しい目をしてブブを見た。
「そうか。
ごめんな、ブブ。
有難う。」
アルテミシアはブブの手拭をまた濡らしてから、そっとその額に置いた。
ブブは、小さく寝言で何か言った。
いつの間にか、ブブのからだは、いつものブブくらいのあたたかさに戻っていた。




