30
なんとか日没までには、ピサンリのところへ戻ってこられた。
ピサンリは朝よりも具合はよくなっていて、それは本当によかった。
森でもらってきた水を飲むと、ピサンリの具合はもっとよくなった。
森の水には、からだを癒す力もあるみたいだった。
ピサンリは僕に土笛を返してくれた。
一度も吹かなかった、と言って笑っていた。
けれど、これのおかげで、心強かった、って。
そう言ってもらって、なんだか、僕は嬉しかった。
夜には保存食を一緒に齧った。
そういえば、朝から何にも食べてなかったなって、そのときになって思い出した。
僕らは、そんなに食べなくても生きていけるけど。
僕がこんなに食べないなんてことは滅多にないことだった。
元気になったピサンリに、僕は森の話しをした。
ピサンリは僕の話しを聞いて、うーん、と唸った。
「白く枯れた森を浄化できるのは、赤い炎だけじゃ、と。
昔、じいさまから聞いたことがある。」
「赤い、炎?」
それって、火で焼くってこと?
僕はぶるぶるとからだを震わせた。
「っだ、ダメだよ!
森に火をつけるなんて。」
それがどんなに恐ろしいことか。
僕らにとって、それは常識だった。
ちゃんとした竈の設備のないところでは、野営するときにも、僕らは火はなるべく使わない。
それが当たり前だった。
「森を、焼くなんて、できないよ。」
僕は何度も首を振った。
そんな僕を、ピサンリはちょっと気の毒そうに見ていた。
「わしだって、初めてその話しを聞いたときには、そんなことはできんと思うた。
そもそも、森が白く枯れるなんてこと、想像すらできんかったしのう。
しかし、じいさまは、はっきりとそう言うたのじゃ。
そうしなければ、白く枯れる病は、他の森をも侵していく。
それを食い止めるために、枯れた森は焼き払うしかないのじゃ、と。」
確かに。
あれが森を白く枯らす病なのだとしたら、その病をどこかで食い止めなければ、病は他の森にまで拡がってしまう。
だけど、だとしても、たとえ白く枯れているとしても。
森を焼くなんて、やっぱり僕には無理だと思った。
ピサンリは震える僕の背中にそっと手を置いた。
その掌のあたたかさに、はっと我に返った。
「森の民にとって、それはとても辛く苦しいことなのじゃろう。
それは理解する。
どうしたってできないのならば、それは仕方あるまい。」
…仕方ない?
だよね?
だって、できないもの。
できないのなら、無理にやらなくてもいいんだよ。
仕方ないから。
……
だけど、本当に、それで、いいのかな?
僕に、何も願わなかったあの優しい森。
森の民に森を焼くなんてできない、ってことは、森もよく分かっている。
それに、白く枯れた森は、彼らにとっては同じ仲間だもの。
たとえ枯れてしまったとしても、その病を感染さないために、仲間を焼くなんて。
彼らだって、願えないんだ。
だけど、白く枯れる病は、もうすぐそこまで迫っていて。
あの優しい森も、もう直に、白く枯れていく…
僕は思い出す。
もう森じゃなくなっていたあの郷のこと。
もしかしたら、あの郷の人たちは、彼らの森を焼いたんだろうか。
そうして、彼の地へと旅立つ決意をしたんだろうか。
それがどんなに辛いことだったか、想像するだけで息が苦しくなる。
だけど、少しでも、まだ無事な森は守りたい。
方法は本当に、それしかないのかな。
ずっと、考えはぐるぐると同じところを回っていた。
はっと気づくと、僕は、あの白く枯れた森にいた。
いつの間に、こんなところへ来てしまったんだろう?
ふわり、と白い粉が舞い上がった。
僕は白い粉を吸い込まないように、ぎゅっとマントをかき寄せて口元を覆った。
歌のない、音のない森を、僕は進んでいった。
ずっと信じて歩き続ければ、いつかは元気な森に辿り着くはず。
そう思って歩き続けた。
けれども、行っても行っても、白く枯れた森は終わりにはならなかった。
前に来たときには、この辺はまだ無事だったのに。
そう思って辺りを見回した僕は、思わず悲鳴を上げていた。
その木には見覚えがあった。
僕に応えて、泉の場所を教えてくれた森だった。
森は真っ白になって枯れていた。
僕は土笛を取り出して吹いてみた。
ここの森の歌は知っていた。
この歌を聞けば、森は目を覚まして応えてくれるんじゃないかと思った。
だけど、応えは返ってこない。
いくら笛を鳴らしても。
歌より、葉っぱより、上手に吹けるはずなのに。
涙が溢れた。
僕のせいだと思った。
僕は、彼らを助ける方法を知っていたのに。
無理だ、できない、って、彼らを見捨ててしまった。
僕は声を上げて泣いた。
こんな泣き方、いつ以来だろう。
だけど、こんなふうに泣いていたら、いつも、誰かが来てくれた。
父さん母さんはいなくても。
ルクスもアルテミシアも、郷のみんなも、いてくれたから。
だけど、ここには誰もいなかった。
そうか、ここは枯れた森だから。
森の民ももう棲めない森だから。
誰も、いなくなってしまった。
ルクスも、アルテミシアも。
父さん、母さんも。
郷のみんなも。
枯れた森には、もう、誰も棲めない。
…森を、焼くのじゃ…
唐突にピサンリの声が聞こえる。
僕の手には、いつの間にか、小さな松明が握られている。
その先には、赤い炎が揺れていた。
嫌だ。できない。
松明を取り落とした僕は、即座にその火を踏み消した。
ダメだ。できない。
……それしか、方法は、ない……
いや、他にも方法はあるかもしれない!
そうだ!
エエル!
エエルを見つければいいんじゃないの?
だけど、エエル…
どこにあるの?
どうしたら見つけられるの?
ふわり、とからだが持ち上がった。
僕は、からだはそんなに大きくはないけど、流石に風に吹き飛ばされるほど軽くはない、はず。
なのに、僕のからだは、軽々と持ち上がっていた。
高いところから見下ろすと、遠くにはまだ無事な森があった。
濃い緑に僕の心はほっとする。
だけど、手前は一面、白くなっていた。
そして、その白は、少しずつ、少しずつ、緑の森へと拡がっていった。
「嫌だ!やめて!!」
僕は叫んだ。
力の限り叫んだ。
だけど、白く枯れる病は、非情に森を侵していった。
……どうしたら、いいんだろう……
涙も声も枯れ果てた。
僕はただ呆然と、目の前の光景を見ているだけだった。
いつまでも。
何もしないで。
…大丈夫か?
……おい、大丈夫か?
はっと気づいた。
ピサンリと目が合って、僕は思わずその胸に縋りついた。
「どうした?
怖い夢でも、見たのかのう?」
そう言いながら、ピサンリは僕の背中を撫でてくれた。
夢?
そっか、夢、か。
考え事をしていて、いつの間にかそのまま眠ってしまったんだ。
だから、あんな夢を見たのかもしれない。
僕は、ほっとした。
心底、ほっとした。
あれは、現実、じゃない。
まだ、起きて、いないことだ。
今は、まだ……
よしよし、とピサンリは子どもにするみたいに僕の背中を撫で続ける。
僕はピサンリの胸に額を押し付けて、大きく深呼吸をした。
とにかく、今はまだ、あの森は大丈夫なはず。
優しい森。
僕らに癒しの水を分けてくれた。
僕は、土笛を出して、彼らの歌を吹いた。
ピサンリは、いったい何を始めるのかと、ちょっと驚いていたけど。
僕の笛を聞いて、いい曲じゃのう~、と笑った。
そうだよ。いい歌なんだ。
彼らは森の民には何も願わない。
森の木々は、森の民よりよほど物知りだから。
多分、どうすれば、白く枯れる病を食い止められるか、知っているんだろうけど。
それでも、それは願わない。
そんな彼らに、せめて今夜は、この歌が届くように。
枯れたと思った涙が、また溢れだしてくる。
僕はただ、夜が明けるまで、ずっと笛を吹き続けていた。




