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旅の支度は本当に最低限の荷物だけで、僕らは早々に出発した。
馬の準備をしていたら、匠が大急ぎでいつもの朝食を作って籠に入れて持ってきてくれた。
そう言えば今朝はルクスのところへ行ってたから、食べ損ねたんだった。
「途中、休憩するときにでも、食べてくれ。」
匠はそれから、僕の好物のベリーやら、水の詰まった水筒やらも準備してくれた。
「こんなにいろいろ悪いね?」
オルニスはちょっと苦笑する。
それに、匠は眉をひそめて言った。
「さっき、トゥーレ、とか言ったか?」
オルニスはちょっと困った顔をして頷いた。
匠はため息を吐いて首を振った。
「わたしも、あそこには近づかないほうがいいと思う。
アルテミシアの懸念は、おそらく、正しい。」
「…けどさ、今もそこに棲んでる人もいるわけだし。」
オルニスがそう言うと、匠は、むぅ、と押し黙った。
そんな匠を宥めるように、オルニスは笑ってみせた。
「大丈夫。
僕も、行ったことあるから。」
「何をしに行ったんだ?」
あくまで軽い調子のオルニスに、匠はどこか咎めるように尋ねた。
オルニスは、うーん、とちょっと考えてから、答えた。
「この世界にあるものは全部、一度はこの目で見ておきたい、からかな?」
匠はもう一度、むぅ、と押し黙った。
それから、おもむろに首にかけていた石を外して、オルニスに手渡した。
「これを持って行ってくれ。
わたしが故郷を出るときに母にもらったものだ。
効力のほどは分からんが…
気休めにはなる。」
オルニスはその石を受け取ってよく見えるように光にかざした。
「これは…護符、かな?
お母さんにもらったのなら、大切なものなんじゃないの?」
「そうだな。
無事に帰ったら、返してくれ。」
「そっか。
分かった。有難う。借りていくよ。」
オルニスは石を懐にしまうと、さっとマントを翻して馬に飛び乗った。
「じゃ、もう、行くね?」
そう言って僕のほうに手を伸ばして、馬に乗るのを手伝ってくれる。
匠はもう何も言わなかったけれど、心配そうに僕らの出発を見送っていた。
ピサンリの街へ行くのとは反対側の門から、僕らは王都を出発した。
そちら側の門を出入りする人は極端に少なくて、ほとんど列に並ぶこともなかった。
僕らには王様からの勅命を示す札があって、だから、門でも、何も聞かれずに通ることができた。
門を出ると、そこからは街道が続いていた。
けれど、反対側の街道とは違って、こちら側はひどく荒れ果てて、補修もされていないようだった。
門を出るなり、オルニスは、かなりの速さで馬を駆けさせ始めた。
とても急いで行って帰ろうとするように。
下手に口をきくと、舌を噛みそうだった。
僕はとにかく、必死になって、馬の鬣にしがみついていた。
いつもは口数の多いオルニスも、今日はずっと押し黙っていた。
けど、こんなに馬を走らせてたら、オルニスだって、しゃべるのは難しいだろうって思った。
聞きたいことはいろいろあるけど、それはまた、休憩のときにしよう。
門を抜けた人たちも、ほとんどすぐ近くの何かに用があったみたいで、街道を通る人の姿はまったく見かけなかった。
寂れている、というより、いっそ廃墟のようだ。
道に廃墟という表現が当てはまるのかは分からないけれど。
どうして廃墟だと思ったのか、道を進むうちに気付いた。
とにかく、こちら側は、道以外の場所も、なんだか荒れ果てているんだ。
道端に咲く花ひとつない。
地面には草も木も生えていなくて、石ころと砂ばかり。
そんな荒れ地が、延々と、どこまでも続いていた。
次第に街道も途切れ途切れになり、荒れ地をただひたすらに進んでいるような状況になった。
そんな場所でも、オルニスは躊躇いもなく馬を進めていく。
もしかしたら、ピサンリみたいに、独特の、道を知る方法、をオルニスも知っているのかもしれない。
やっぱりオルニスについてきてもらってよかったなあ、ってつくづく思った。
道もない場所を僕ひとり旅する方法なんて、皆目見当もつかない。
延々そんな場所を進んでいると、本当に前に進んでいるのかどうか、だんだん分からなくなってきた。
そのうちに、僕は少しずつ気分が悪くなってきた。
馬に酔ったのかもしれない。
まだ昼前なのに、辺りの景色も、どんよりと薄暗く見える。
必死に唾を飲んだり、頭を振ったりして堪えていたけれど、とうとう、我慢しきれなくなった。
「オルニス、ごめん。休ませて。」
オルニスははっとしたように馬を止めて、僕を見て、ごめん、って言った。
「顔が真っ青だ。
大丈夫かい?
少し休もうか。」
どっちをむいても石ころだらけの荒れ地。
ひと休みするのによさそうな場所、も見当たらないけど、誰もいないし、適当にその辺に座っても、問題はないだろう。
腰を下ろすところもないから、僕らはマントを敷いて地面に直に座った。
石ころがごろごろしていて、マントを敷いていても痛かった。
それでも、じっと動かない地面に座ると、少しだけ、具合はましになる気がした。
「水、飲むかい?」
オルニスは匠の用意してくれた水筒を渡してくれた。
一口水を飲むと、胸の中のもやもやしていたものが、ちょっとすっとした。
少し落ち着くと、僕は辺りの景色を見回した。
どこまでもどこまでも続く、荒れ果てた土地。
辺りはしんとしている。
そうか、と思った。
ここにはエエルの気配がまったくないんだ。
僕にとっては、森が一番エエルをたくさん感じられる場所だ。
木や草や花のエエルなら、森じゃなくったって感じられる。
街や王都みたいな場所は、馴染みの薄いうちはエエルをあまり感じられない。
だけど、それでも少しずつは、エエルの気配も感じるし、慣れてくると、余所余所しかったエエルたちも集まってきて、歌を聞かせてくれるようになる。
だけど、この土地には、本当に、エエルの気配を感じなかった。
王都に初めて来たときよりもっと、本当に、欠片も感じないんだ。
ここのエエルは、僕のことを余所者だと警戒しているのだろうか。
息を潜めて、どこかに隠れているのだろうか。
それとも、もしかしたら、本当に、ここにはエエルはいないんだろうか。
いや、そんなことはないと思うけど、僕らに敵意を持っていて、僕らの行動を監視している、なんてことも、もしかしたら…
背中に、ぞくり、と寒気を感じた。
なんだか、どこかから、僕らをじっと見つめる目があるような気がした。
はっとして振り返ってみたけれど、誰もいなかった。
すると、僕のからだは、かたかたと小さく震え始めた。
「おい!どうした!」
オルニスは驚いたように僕の両肩を揺さぶった。
僕は何か答えようとしたけど、まったく声が出せなかった。
僕の異変に気付いて、オルニスは懐から取り出したものをいきなり僕の首にかけた。
匠に渡されていた護符だった。
すると、すっと寒気が引いて、からだの震えが止まった。
護符が僕の姿を隠してくれたみたいに、周りに感じていた視線も感じなくなった。
「…助かった。」
僕は首にかけた護符を手に取ってよく見た。
それは、文字とも記号ともつかない何かの印章を彫った綺麗な石だった。
これを匠はお母さんにもらったって言ってた。
もしかしたら、これは、ドワーフ族に伝わる秘術の一種かもしれない。
この世界のあちこちには、失われた古代魔法の欠片がそんなふうに散らばっているんだ。
「これ、大事なものなんだよね。
ちゃんと持って帰って匠に返さないとね。」
僕は大切に護符を服のなかにしまった。
「少し何かお腹に入れるかい?」
出しなに匠の渡してくれた食糧を取り出しながらオルニスが尋ねた。
護符のおかげか不思議と気分が軽くなっていた僕は、有難く、匠のくれたお弁当を食べた。
いつもの食べ慣れた味は、僕らに元気を取り戻させてくれた。




