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鐘を鳴らさないといけないから、エエルを送る魔法はしばらくお休みになった。
もっとも、今、世界にエエルは足りているみたいだから、大丈夫かな。
少しずつなら、今もずっと大精霊はエエルを送ってくれているし。
そのうちに、朝はオルニスと、夕方は匠と時計塔に行く習慣になった。
オルニスは早起きは平気で、いっつも僕を迎えに来てくれた。
おかげで、アルテミシアに起こしてもらわなくても、僕もなんとか毎朝、鐘を鳴らしに行けるようになった。
夕方は匠と一緒に時計塔に上った。
匠は、なにか装置のようなものを持って来て、実験していることもあった。
何をしているのか尋ねたら、滔々と説明してくれたんだけど、言ってることが難し過ぎて、よく分からなかった。
朝、鐘を鳴らして帰ってくると、匠は朝食を三人分用意して待っててくれた。
三人で朝食をとるのも、すっかり恒例になった。
朝食をとりながら、僕らはいろんな話しをした。
もっとも、主に話すのはオルニスと僕で、匠はときどきぼそっと何か言うだけだけど。
黙々と食べることに集中しているから、聞いていないのかと思ったら、ちゃんと僕らの話しを聞いていて、びっくりすることも多かった。
「なあなあ、僕、最近、気づいたんだけど。
讃め歌の最中って、なんか、気持ちいい風、吹いてないかい?」
あるときオルニスはそんなことを言い出した。
それを聞いて僕は、はっと、ヘルバの言ってたことを思い出した。
「もしかして、それは、オルニス、エエルの気配かもしれないよ?」
オルニスは首を傾げて僕を見た。
「エエルの気配?
それって、歌、なんじゃないの?」
「僕には歌に聞こえるんだけどさ。
ヘルバは言ってたんだ。
エエルの気配を風みたいに感じる、って。」
「???どういうこと?」
「エエルの気配は人によって感じ方は違うってこと。
だけど、本来、エエルは、誰にだって感じられるものなんだ。
きっと、オルニスはエエルの気配を感じているんだよ。」
「そっか。あれは、エエルの気配なのかあ。」
オルニスはなんだか楽しそうに頷いた。
「わたしは、讃め歌の間は、いい匂いを感じるけどなあ。」
ぼそっと匠は呟いた。
「へえ、匂い?
そっか。匂いに感じる人もいるんだ。」
エエルの感じ方は人それぞれだ。
だけど、匂いに感じる、というのは初めて聞いた。
「あれがエエルの気配だと言われても、よく分からんが。
しかし、他じゃ嗅いだことのない匂いだな。」
「へえ。どんな匂いなの?」
オルニスは興味深そうに尋ねた。
「どんな?
ふむ。花の匂いでもなし、食べ物の匂いとも違うし…、なにか他に、例えようがない…
いい匂い、としか言いようがない。」
匠は首を傾げた。
「よくよく考えてみれば、昔から、わたしはあの匂いを知っていた気がするんだ。
ただ、なんとなく、いい匂いがするなあ、程度にしか思っていなかったけれど。
しかし、笛使いと一緒に時計塔に上るようになってから、毎回、あの匂いを感じるようになった。
それは、つまり、エエルの気配、というやつなんじゃないのか?」
「そうだよ、きっと。
エエルはね、気付かなくても、ずっと傍にいたんだ。」
僕は身近な人たちもエエルを感じているって知って、なんだか嬉しくなった。
「へえ。どんな匂いなんだろ。
僕も嗅いでみたいなあ。」
オルニスはけろりとそんなことを言う。
匠は少し困ったように首を傾げた。
「この間、市へ行って香木やスパイスも片っ端から試してみたが、似た匂いはなかった。」
「それは残念。」
オルニスはあっさり諦めたみたいだけど、匠は、ふむ、としばらく考えてから続けた。
「しかし、何かをどうにかすれば、あれは、再現可能なんじゃないか…
なにせ、あの香りは、わたしにとっては、とてもなじみ深い香りなんだ。」
それから顔を上げて、僕らを見回して言った。
「香りの調合というのは、わたしはまだ手を出したことのない領域なんだが。
そのうちに挑戦してみても、いいかもしれない。」
香りの調合?
そんなことまで、やるんだ。
本当、匠って、どんなものでも、作ろうとするんだね。
「へえ~、そりゃ、楽しみだ。」
オルニスは嬉しそうに手を叩いた。
匠もちょっと嬉しそうだった。
「とても、いい匂いなんだ。
あんたたちにも嗅いでもらいたい。
とても懐かしくて、ほっとするような。
それでいて、心の内側から、なにか沸き立ってくるような。
そんな香りだ。」
「ずいぶん詩的な表現だ。
匠がそんな言い方をするとはね。」
からかうようなオルニスに、匠は憮然とした目をむけた。
「わたしにだって、そういう一面もある。」
「いや、むしろ、匠って、そっちが本性だよね?」
僕はそう思ってたよ。
正直なところを言ったんだけど、匠は何故か赤くなった。
「あんたには、いろいろと調子を狂わされる。
だけど、それがまた面白い、と思ってしまうから困る。」
「あ。それ、僕も分かる~。」
オルニスも嬉しそうに同意してけらけら笑ってた。
そう?
僕って、そんな感じ?
自分じゃよく分かんないや。
そんな話しをしてから、オルニスは朝、いつも楽しそうに風を感じている。
それから、ときどき、風の匂いを嗅いだりしている。
匠も、難しい顔をして風の匂いを嗅いだり、首を傾げているようになった。
鐘の音と共に見る日の出や日の入りの景色は、いつも最高だった。
雨が降って、お日様の見えないこともあったけど。
それはそれで、綺麗な景色だった。
こんな景色を毎日見られて、おまけにみんなにも喜んでもらえて。
僕って、幸せ者だよなあ、って、つくづく思った。




