225
はっと我に返ると、隣で匠が僕をじっと見ていた。
「…なんだ、今のは?」
なんだ、と聞かれても困るんだけど。
首を傾げたら、匠は聞き直した。
「あんたが吹いていたのは、なんだ?」
ああ、それ?
「讃め歌?」
個人的には、あの歌をそう呼んでる。
そうか、と言ったきり、匠は沈黙した。
僕はちょっと気まずかった。
「…あの、僕、そろそろ、戻ろうかな?」
ここ、風が強くて、ちょっと寒いんだよね。
「ああ。
先に戻ってくれ。」
「…分かった。」
匠は飛翔の紋章は使わないって言ってたし。
ここは、僕、ひとり先に帰るか。
紋章を首にかけると、ふわりとからだは軽くなった。
そのままゆっくりと宙に踏み出してみる。
何もないところに足を踏み出すのはちょっとどきどきするけど。
この間、オルニスと一緒に一度やったから、そこまで恐怖心はなかった。
「あの。僕、先に帰るよ?」
念のため、振り返って匠に確認する。
匠は、ああ、とも、おう、ともつかない返事をした。
まあ、いいや。
一応、言ったからね。
テラスや中庭にいた人たちが、僕の姿を見つけた途端、ものすごい喝采が轟いた。
もう一度、エエルたちの饗宴が舞い戻ったのかと思うくらいだ。
僕は、ちょっと照れくさかったけと、小さく手を振ってみた。
すると、さっきよりもっと大きな歓声が聞こえた。
…なんか、ものすごく、恥ずかしいんだけど。
どうにも、僕にはむいてないよなあ。
ルクスとかなら、もっとうまく応えられるんだろうなあ。
まあ、いいや。
人にはむきふむきってもんがある、って、誰か言ってたし。
僕にはむいてないんだから。
あとは、下だけ見て、一心不乱に足を前に出した。
足、踏み外す、なんてことは、あり得ないんだけど。
やっぱりちゃんと見てないと怖い。
無事にテラスに着いたら、大勢の人に取り囲まれた。
みんな口々にいろんな質問をしたり、手を伸ばして僕の腕や背中を触ったりした。
労ってくれたり、褒めてくれる人もいた。
感動した、とか、幸せな気持ちになった、とか、言ってくれる人もいた。
いっぺんに言われて、僕には到底応えきれなくて、ただ、あっちこっちきょろきょろと振りむいては、へらへら笑いだけ返していた。
そうしたら、ふいに、腕のところを掴まれて、見たらアルテミシアだった。
「とりあえず、行こう。」
アルテミシアは僕の腕を引っ張って強引に歩き出した。
周りを取り囲む人たちも、アルテミシアの姿を見たら、ゆっくりとだけど道を開けてくれた。
「気分はどうだ?
辛いところはないか?」
歩きながらアルテミシアは僕に尋ねてくれた。
ううん、大丈夫、と僕は首を振った。
「そうか。
だけど、疲れただろう?
少し、部屋に戻って休むといい。」
アルテミシアが僕を連れて行ってくれたのは、アルテミシアの私室と続き部屋になっているあの部屋だった。
「君の部屋には、大勢、詰めかけてるらしい。
みんな、君に話しかけたくてたまらないんだ。」
「…それは、申し訳ないけど…ちょっと…」
困る、かな。
「ああ。
質問や意見は後から文書にまとめて提出するように言ってある。
今は、みんな興奮が冷めないんだ。
だから、君のところへ押しかけてしまう。」
「…ごめんね?」
なんか、いろいろ、気を遣ってもらって。
「君が謝ることじゃないだろう。
くれぐれも、君個人にそういうことはしないように、と言ってあったんだけどね。
予想以上に、みな感動した、ということなんだろうな。」
「喜んでもらえて、よかった、かな。」
とりあえず、鐘は鳴ってよかったよ。
「君はよくやった。」
そう言ってアルテミシアが見せてくれたのは、僕を最上級に褒めるときの笑顔だった。
その笑顔を見られるなら、僕は、なんだって頑張れるよ。
「廊下側の扉には鍵をかけてある。
こっちのあたしの部屋を通らないと、ここには出入りできない。
ここに君がいることは誰も知らないから。」
いやあ、いたれりつくせりだ。
「いろいろ助かるよ。」
「少し横になるかい?
なにかほしいものは?」
「今は何もないかな。
ちょっと休むよ。」
僕は有難く、ソファに座って、軽く目をつぶった。
アルテミシアはそれを見届けると、静かに部屋を出て行った。
と思ったら、いきなり隣の部屋から言い争う声がした。
「君たち!
なにを勝手に!」
「王様のご命令です。
今すぐ、大賢者様をお連れするようにと。」
「あの子は今は疲れているんだ。
少し、休ませて…」
「王様のお時間は限られているのです。
今すぐに会いたいとおっしゃるのなら、すぐに従うべきです。」
と思ったら、ばんっ、とアルテミシアの部屋と続いている扉が開いた。
どやどやと入ってきたのは、ものものしい鎧を着けた一団だった。
かしゃかしゃと音を立てて入ってきた彼らは、狭い部屋の中で一斉に膝をついた。
「大賢者様。
王様がお呼びです。
すぐに、お越しくださいますよう。」
口調は丁寧なんだけど、今にも僕を捕まえて、連行しそうな感じだった。
「ちょっと!君たち!やめるんだ!」
アルテミシアは僕と鎧さんたちとの間に割り込もうとしたけど、鎧がかさばるから、部屋の中にすら入ってこられないようだった。
「あ。
うん。
分かりました。
僕、行きます。」
僕のために鎧さんたちと争っているアルテミシアに申し訳ない気がして、僕は急いで行くことにした。




