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扉の外に出て、僕は目を丸くした。
屋根の上かと思ったんだけど、そこはちょっと広いテラスになっていた。
ここは、街中より、強い風が吹いている。
風に吹かれながら、オルニスは心地よさそうに目を細めた。
「ここはさ、僕、前から知ってたんだよね。
ときどき、来ていたから。」
「そうなんだ。」
風は、オルニスの髪をさらさらとなびかせていた。
「石造りの街にずっといると、どうしたって、疲れるよね?」
オルニスは僕を振り返って言った。
「この場所のことは、森の民の研究員に聞いたんだ。
疲れたときには、ここへ行くといいよ、って。」
確かに。
ここで風に吹かれていると、それだけで、少し、からだのなかにたまった重たいものが、吹き払われていくみたいだ。
「どうしたって、僕らには、そういうことが必要なんだよ。」
「そうだね。」
石の街にはヘルバの木があって、あの木は、どこか僕にとっても森みたいだった。
だけど、この街には、森の代わりになるものは何もない。
だから、いつの間にか、僕のなかにも疲れみたいなものが、溜まっていたのかもしれない。
「さてと。
ここが最終目的地じゃないよ?」
オルニスは悪戯っぽく笑うと、山の民から借りてきたスティックを見せた。
それからそのスティックで、何かを指し示した。
つられてそっちを見ると、大きな時計塔があった。
それは街のどこからでも見える時計塔だった。
研究院の象徴的な建物、と言ってもいいかもしれない。
もしかしたら、王宮の塔のてっぺんより、高いんじゃないかな。
「やっぱり、ここまで来たからには、あそこも制覇しないとね。」
「制覇って…
いやいやいや。
僕はもう、じゅうぶんだよ…」
僕はまた尻込みしながら言った。
だけど、オルニスは、いいや、と首を振った。
「君は弱くはない。けど、詰めが甘い。
すぐに無理だって諦める。
それは悪い癖だね。」
「だって、あんな高いところ…風だってあるのに…」
「風のエエルにお願いできないの?
今だけ少し、優しく吹いてくれ、って。」
「ああ!やってみるよ。」
言われて僕は慌てて笛を取った。
そうか。その手があった。
風のエエルはすんなりと僕のお願いを聞いてくれた。
少し優しくなった風を浴びながら、オルニスは満足気に微笑んだ。
「君がいると、本当助かるなあ。」
「…だけど、本当に、あんなところ、上るの?」
風が吹いてなくても、純粋にとても高い。
あんなところへ、どうやって上るつもりなんだろう。
そういえば、ヘルバは、高いところにも、ふわふわと浮かびあがっていたっけ。
だけど、僕には、そんな真似はとてもできない。
だいたい、どのエエルに頼めばいいのか皆目見当もつかないし。
ヘルバの木は僕を持ち上げて、高いところに乗せてくれたりもしたけど。
ここじゃ、そんなふうに親切にしてくれるエエルもいそうにない。
「僕は、紋章を使いこなす人たちみたいに、魔法を使うことはできないんだけど…」
もっと早くヘルバにいろいろ習っておけばよかった。
って、後から思ったけど。
結局、僕には、ろくな魔法は使えないんだ。
「ああ、そんなの端から期待してないから、大丈夫。」
オルニスはけろりと言うと、スティックをかちゃかちゃと変形させ始めた。
「本当、これって、便利だよなあ。
よいしょ、っと。」
そう言ってオルニスの作ったのは梯子?だった。
え?
嫌な予感しかしない。
複数あったスティックを組み合わせて、オルニスはすごく長い梯子を作った。
「昔さあ、長い長い梯子を作れば、星に届くんじゃないかな、って思ってたんだよね。」
いやいやいや。
どんなに長い梯子を作っても、星には届きません。
「まあ、星には無理だろうけど、屋根には届くかな。」
よっこいしょ、とオルニスは梯子を立てる。
長い長い梯子の先は、ぎりぎり、時計塔の屋根に届いていた。
「ほら、ばっちり。」
いやいやいや。ばっちり、じゃないです。
「っぼ、僕は、いい、かな。
君、ひとり、行っておいでよ。」
僕は急いで引き返そうとしたけど、がっちりとオルニスに腕を掴まれていた。
「だーめ。
君のために、用意したんだから。
さあ、行くよ?」
いや、行くよ、ったって、無理だよ、僕には。
なんとか踏ん張ろうとしたんだけど、所詮、力じゃ勝てなくて、ずるずると僕は引きずられていった。
「ほら。
ちゃんとフックも固定してあるから、揺らしたって大丈夫。」
そう言って梯子を揺らしてみせるけど。
ゆ、揺れてますよ?先端のほうは、かなり…
「それに、君は風のエエルとお友だちなんだろ?
もし、落ちたって、風が助けてくれるって。」
「っそ、そんなの、あてになんないって!
っか、風は、生き物じゃないから!
っお、落ちたら、どうなるか、とか、考えないから!
だからっ!」
「僕が君の後ろから上ってあげるから。
ほら、思い切って、行った行った。」
オルニスは僕をぐいぐいと梯子に押し付けて、下からお尻を持ち上げた。
「えー…そんな…」
「大丈夫大丈夫。
僕、高いところ、平気だから。」
「…僕は、平気じゃない…」
「足、踏み外したって、ちゃんと受けてあげるから。
ほら、いいから、一段ずつ上りな。」
「………」
ずいっ、ずいっ、と半分強引に押し上げられて、仕方なしに、僕は梯子を上る。
風がないのが救いだけど、それでも、ものすごく怖い。
「ほらほら。思い切って行きな。
大丈夫。僕がついてる。」
もう半泣きなんだけど。
それでも、なんとか、僕は一歩ずつ、梯子を上っていった。
「ほら、そこ、手をかけて。
そうそう。」
言われるままに上っていくと、なにやら小さな蓋、みたいな扉が壁についていた。
「その扉、開いて。」
う、うん…
扉の把手に手をかけると、それは軋んだ音を立てて手前に開く。
蝶番は上についていて、だから、ちょうど僕らの上に庇みたいになって、扉は止まった。
「そこ、入って。」
「うん。」
ちょっと狭いけど、梯子を上るよりは怖くない。
僕は這うようにして、扉の内側に入った。
僕の後から、オルニスも同じようにして入ってきた。
入ってしまうと、そこはまあまあ広い空間で、立って歩くこともできた。
中央は地の底に続いてそうな巨大な吹き抜けになっていて、時計を動かす仕掛けなのか、たくさんの歯車が、軋むような音を立てて回っている。
いや、実際には、吹き抜けは、地の底じゃなくて、せいぜい時計塔の下まで、だろうけど。
「ここは時計のメンテナンスをするための場所なんだそうだよ。
前に山の民の研究室で、ここの見取り図を見つけてさ。
一回、入ってみたい、って思ってたんだよね。」
オルニスは楽しそうに吹き抜けを覗き込みながら言った。
「この時計、ずっと止まってたんだけど。
修理を頼まれて、山の民たちが直したらしいんだ。」
そっか。オルニスはここのこと、最初から知ってたんだ。
「屋根の上、じゃなかったんだ。」
「あ、残念?
なら、上ってもいいよ?」
「い、いやいやいや。
遠慮します。
僕にはもう、じゅうぶんです。」
僕は今度こそ連行されないように、吹き抜けの手すりにしがみついた。
オルニスは苦笑して、肩をすくめた。
「この部屋は狭いけどさ。
こうして、ここを回すと…」
そう言ってオルニスは壁に取り付けられた大きな舵輪を回した。
すると、きぃきぃと音を立てて、周囲の壁が下がり始めた。
「ここはさ、非常時の物見の塔も兼ねてたんだって。
だから、ほら、素敵に広いだろ?」
オルニスは披露するように得意気に手を広げた。
そこは、王都の隅々、いやそれよりもっと遠くまで、見渡すことのできる、場所だった。




