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夜の森を僕らは走った。
この辺りまでは、探検と称して来たこともあったから、道に迷う心配もなかった。
昼間はあんなに重かった足も、不思議なくらいに軽く感じていた。
「ここならまだ引き返せるのにな。
ったく、年寄りは頭が固くていけない。」
ルクスは走りながらそんなことを言って笑った。
アルテミシアは、こら、と言って、そんなルクスをぶつ真似をした。
「族長様になんてこと言うんだろ。」
「だって、そうだろ?
族長は、こいつにとってあれがどれだけ大事なものか、分かってなかったんだ。
どうせまた作ればいいなんて、簡単に考えたんだろ。」
「族長様はいつも深いお考えをお持ちだ、って。
そのお考えの深さは、あたしたちには、想像もつかないもんだ、って。
教場の先生だっていつもおっしゃってたじゃない。」
「出た。教場の先生。
そりゃあ、あの方たちは、俺たちよりずーっとずーっと長く生きて、この世界を見てきたからさ。
その分、いろんなこと知ってるかも、だけど。
こいつに関しては、俺たちのほうが、よっぽど分かってると思うね。」
「ねえ、ルクス?アルテミシア?喧嘩しないで?」
言い合いになりそうな二人の間に、僕は割って入った。
「喧嘩はしてない。」
「喧嘩なんかしてないよ?」
すると両方から同時に同じ言葉が返ってくる。
これがいつもの僕らの位置関係だ。
ルクスは、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「しゃべりながら走ると疲れるからな。
ここからは、俺はもうしゃべらねえ。」
「だね。今はとにかく走るのに集中しよう。」
二人はそう言うといきなり走るスピードを上げた。
「あ、待って!」
僕は一番しゃべってなかったけど、二人に置いて行かれそうになって、慌てておいかけた。
道に迷うようなこともなくて、あっという間に僕らは郷に着いていた。
今朝出てきたばかりだっていうのに、なんだかひどく懐かしい。
だけど、郷には誰もいなくて、長く棲んだ馴染みの場所なのに、どこか余所余所しくて冷たい感じもした。
僕らは何も言わずに、僕の棲んでいた家にむかった。
戸口にはわざと鍵はかけなかった。
大切なものはもう何も残していないし、もしも森の中で迷った人がいたら、使ってもらえばいいと思っていた。
扉は軋んだ音を立てて開いた。
蝶番に油を差さなくちゃって思っていたのを思い出した。
今朝までは旅立ちのことで頭がいっぱいで、忘れていたけど。
ついこの間まで、普通にそんなことを思いながら暮らしてた。
思った通り、土笛は居間のテーブルの上にあった。
ここで荷造りをして、そうして、首にかけるかどうか、迷ったんだ。
遠慮なんてしないルクスは、僕より先に部屋に入って、ひょいと土笛を取って僕に手渡してくれた。
どこに置いてあるのか僕に聞きもしないのに、どこにあるかまるで分かっていたみたいだった。
手に持った瞬間、ああ、これだ、って思った。
よく馴染んだ懐かしい重み。
つるんとした表面。
手の中にしっくりと収まるカーブ。
なにもかもが、僕ぴったりにできた僕の大切な宝物。
どうしてこんな大事な物を、忘れたりなんかできたんだろう。
僕は土笛を両手で大切に持つと、そっと、息を吹き込んでみた。
ぽぅ、っと優しい音が響いた。
「いい感じに和んでるとこ、悪いんだけど。
そろそろ戻らないと、朝までに戻れないよ。」
はっと我に返った。
アルテミシアの言うことはもっともだった。
野営の場所は、ここからだいだい一日歩いたところだ。
大勢でゆっくり歩いたから、思ったほど距離は捗らなかったけれど。
それでも、往復するには、全力で走っても一晩じゃぎりぎり難しいくらいの場所だった。
「三人もいなけりゃ、少しくらい待っててくれるんじゃね?」
ルクスはそんなことを言ったけど、アルテミシアは眉をひそめて首を振った。
「掟破りは即追放だもの。
あたしたち、族長の言いつけを破ったことに違いはないし。
遅れたら、本当に置いて行かれるかも。」
それは大変だ。
僕は自業自得だとも言えるけど。
ルクスやアルテミシアまで、追放にさせるわけにはいかない。
「他に忘れもんはないか?」
ルクスは確認するように僕を見た。
僕は何度もうなずきながら、土笛につけた紐を首にかけた。
「そんじゃ、帰りは行きより急ぐぞ?」
それに反対する人なんていなかった。
外に出て、見上げた空には真ん丸の月がかかっていた。
そうか、出立は満月だったんだって思い出した。
ずっと、土笛のことで頭がいっぱいで、月を見上げる余裕なんかなかったけど。
その月はてっぺんよりずっと下までもう下りてきていた。
月が地面に隠れるころ、ちょうど夜が明ける。
出発は多分、夜明けと同時だろう。
急がないと本当に間に合わない。
僕らはもう口もきかずに、ただひたすらに道を急いだ。
僕が怖がり屋だから、来るときには平坦な走りやすい道を選んでくれたけど。
帰りはそんなことも言ってられないって僕にも分かっていた。
崖や沢を飛び越えて近道できるところは迷わず近道をした。
アルテミシアはいっつも僕のほうへ手を伸ばして支えようとしてくれた。
どうしても僕が飛べないところは、ルクスが抱えて飛んでくれた。
僕らは急ぎに急いだ。
だけど、無情に空は明るくなっていった。
早起きの鳥たちの鳴く声がし始める。
まだ、もう少し。もう少し…
まさか、置いて行かれたりはしないだろう。
少しくらい、きっとみんな待っていてくれる。
たとえ置いて行かれたって、あののろのろの行進だ、きっと追いつけるに違いない。
青の薄くなっていく空を見上げて、僕はそんなことを考えた。
野営地らしき場所に着いたとき。
夜はもうすっかり終わっていた。
そして、そこにはもう、誰の姿もなくて。
誰かのいた形跡すら、何一つ、残っていなかった。