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結局、紋章を使う方はからっきしだったんだけど。
ヘルバの書を読んで分かったのは、秘術ってのには、ありとあらゆることがあり得るんだ、ってことだ。
前に、ヘルバが、秘術は人の想像の及ぶ限りある、って言ってたけど。
その言葉の意味が、ようやくちゃんと飲み込めた気がする。
ヘルバの書には、基本的な秘術が網羅されていて、それを複合したり応用したりすることで、それこそ星の数以上に秘術はある。
いや、多分、そこに書いていなかったとしても、思い付くことができれば、それは秘術になり得るんだ。
ところで、秘術、というのは、僕ら森の民の言い方だった。
読んで字の如く、秘密の術、のような意味あいだ。
けれど、大昔それは、秘密でもなんでもなかった。
誰にでも使えるごくごく当たり前の技だった。
その頃の人たちは、それを、魔法、って呼んでいた。
平原の民は、今も、そのことを、魔法、って呼んでいるそうだ。
そういえば、大精霊も、魔法、って言ってなかったっけ。
エエルの起こす魔法、って。
魔法を起こすにはエエルの力が必要だ。
僕ら人の目には、何もないところから何かを出現させたり、突然エネルギーが発現したりするように見えるんだけど。
エエルにとっては、それはごくごく自然なことなんだそうだ。
エエルというのは、魔法を起こすだけじゃなくて、この世界の命に生きる力を与えるものでもある。
エエルのたくさんある世界は、森も水も、土も風も、命の力に満ち溢れている。
甘露の雨は畑を潤し、作物はたわわに実る。
豊かな森は世界を護り、ありとあらゆる生命にその恵みは行き渡る。
この世界のエエルは、枯渇しかかっていて、大精霊のお蔭で、今、少しずつ、回復にむかっているけれど。
現状、それはまだ、世界中に行き渡っているとは言い難かった。
僕の周りには、もう、白枯虫は現れなくなったけれど。
今もまだ、どこかの森は、枯れていっているんだ。
おそらく、たっぷり時間をかければ、それは少しずつ、回復するのだろう。
ヘルバの木は、休みなく、世界にエエルを供給し続けている。
僕はただ、ここにじっとして、世界が幸せに塗り替えられていくのを、傍観していたっていいのかもしれない。
だけど、世界に争い事は絶えないし、ルクスとアルテミシアと、彼らを信じて付き従う人々は、今も、そんななかで戦っている。
僕ひとり安穏と暮らすわけには、やっぱり、いかないと思う。
昔、畑の野菜が盗まれたとき、アルテミシアは、この世界にもっとたくさんのエエルがあれば、すべての畑は豊かに実り、誰も、盗む必要なんてなくなる、って言った。
だから、もっと早く、この世界にエエルが満ち溢れたら、争う必要もなくなるんじゃないかな。
世界中のどこもかしこも、暮らしやすい、豊かな場所になるように。
もっとずっと、遠く遠くまで、エエルを行き渡らせられたら。
世界の隅々まで、ありとあらゆる場所に。
たとえ、一緒に旅をしていなくても、僕だって、ルクスとアルテミシアの仲間だ。
遠くからだって、彼らの力になりたい。
ルクスとアルテミシアはもちろんだけど。
敵対している人たちだって、それぞれがそれぞれの場所にいて幸せになれるなら、もう争いなんて、必要なくなるんじゃないかな。
ヘルバの木は、今も、世界にエエルを供給してくれている。
だけど、僕だって、この世界の住民なんだから、この世界のために働けるなら、そうしたい。
紋章を使わなくても、魔法は起こせる。
ヘルバは、失われた古代の魔法を、再び万人が使いこなせるように、紋章術を作った。
紋章は、今の人たちにとって、一番楽に、魔法をマスターする手段だ。
僕にはそれは無理だったけど。
僕には、この笛がある。
笛を吹くことは、僕にとって、魔法を起こすことではなくて、周りの存在と一緒に歌うことだった。
それが楽しくて、ずっとそうしていたんだ。
なにか魔法を起こそうとか、そういうことは考えたことなかった。
ただ、笛をうまく吹けたとき、辺りを満たす幸せな一体感とか、そこを吹き抜ける風の爽快感とか、そういうものを感じていた。
今から思えば、あれも、魔法だったのかもしれない。
多分、癒し系?の魔法の一種なんじゃないかな。
いや、魔法だとは思わなかったけど。
魔法、ってのは、ああいうのを言うんじゃないだろうか。
そういえば、滝にお願いして、背中に乗せてもらったこともあったっけ。
あれも、よくよく考えれば、魔法、って言っていいのかもしれない。
僕的には、滝に力を貸してもらった、に近いけど。
もしかしたら、魔法って、エエルたちに、力を貸してもらう、ことなのかも。
だったら、多分、僕は、紋章を使えなくても、魔法を使える。
もしかしたら、僕みたいなのは、遠い先祖返りなのかも。
大昔の人たちは、紋章を使わずに魔法を使っていたのだから。
僕の手のなかには、思ってもみなかった力があった。
そして、それで、ほんの少し、背中を押したら、多分、世界はすいすいと、前に進むんだ。
だとしたら、それを使わないなんて選択肢は、やっぱりないと思うんだ。
ヘルバの書には、笛を使って魔法を起こす方法なんて、書いてない。
つまり、これは、あくまで僕自身の手探りだ。
紋章で爆発ばかり起こしてたくせに、こんなことして大丈夫なのかなって、不安はあるんだけど。
なんだろう?
不思議と、大丈夫、って気もするんだ。
だって、この笛のことは、誰より、僕はよく知っているもの。
土から捏ねて、この手のなかで作り上げた、僕のための笛なんだもの。
どう息を吹き込めばどんな音が鳴るのか、僕はもう知り尽くしているし。
笛は、僕の望む通りの音で応えてくれるから。
ヘルバの木の下に立って、耳をすませば、風の歌が聞こえていた。
風の歌に合わせて笛を吹けば、多分、風は応えてくれるだろう。
エエルの小さな粒を、風に乗せて。
世界の遠く遠くまで、運んでいって。
願いを込めて、笛を吹いた。
風は強くないほうがいい。
やわらかく、長い風が、世界を吹き渡りますように。
優しく優しく息を吹き込んだ。
長い息をゆっくりと笛に送る。
笛は応えて、優しい音を立てた。
みんなが、幸せだと、いいと思うんだ。
今いる場所で、幸せになれば、もうどこにも行かなくったっていいじゃないか。
いや、どこかへ行きたい人は、行けばいいけど。
そこも豊かな場所なら、誰かのものを取らなくてもいいし、そうしたら、誰も、誰かにものを取られる心配をしなくていい。
エエルさえ行き渡れば。
世界のどこもかしこも豊かになれば。
きっと、そんな世界は実現する。
場所取り合戦みたいなことは、もうしなくていい世界になるし。
居場所の奪い合いも、誰かを追い出すことも、誰かに追い出されることも、もうしなくてよくなるんだ。
祈り、というものを、そのとき僕は、初めて知ったのかもしれない。
願い、というのとは、違っていて。
それは確かに、祈りだった。
僕は何に祈っていたのか。
やっぱり、大精霊、かな。
ゆっくりと、大精霊の姿が現れた。
ああ、やっぱり、あの存在は、夢じゃなかったなんて、ぼんやりと思っていた。
大精霊は、ぱっちりと目を開いていて、僕のほうを見ていた。
それから、ひとつ頷くと、両手を高く差し上げた。
まるで、枝を広げる大樹のように。
大精霊の両腕から、信じられないくらい大量のエエルが、世界へと送り出されていく。
それはこれまでと比較にならないくらい大量のエエルだった。




