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朝食後、僕らは早速、紋章の本を読み始めた。
僕は平原の民の言葉は話せないんだけど、読む方は、少しだけ読める。
前に、ピサンリの持っていた書物で、勉強したんだ。
だけど、ルクスやアルテミシアみたいに、自在に読むとまではいかなかった。
ヘルバの家に来てからも、ヘルバの蔵書を読むために、平原の民の言葉を勉強しなくちゃなあ、とは何回も思ってた。
思ってただけだけど。
どうせなら、もっと早く、やり始めたらよかった、って、今は思うんだけど。
まあ、思い付かなかったんだから仕方ない。
ルクスは読めるし。
アルテミシアも読めるし。
僕はべつにいいかな、って思ってたところもある。
こんなふうにルクスとアルテミシアと離れ離れになるなんて、思ってなかったし。
今も、ピサンリは読めるんだから、いいっちゃいい、のかもしれないんだけど。
そろそろ、なんだって人任せじゃなくて、自分の力でやれるようにしたほうがいいよな、って思い始めていた。
最初のところは、前にルクスに読んでもらったことがある。
けれど、復習を兼ねて、そこから丁寧に読むことにした。
「え、っと…
平原に、荒廃の、兆候が、現れ、た、のは、森よりも、ずっと、遅かった。
平原の民、が、ようやく、…大きい?、あ、重い、だ、腰を、上げた、とき、森の民は、もはや、ほとんど、残って、いな、かった。
しかし、実際には、それ以前から、平原の民は、薄々、世界の荒廃を、感じていた。
ただ、それを、見ないように、していた、だけだった。」
「なんじゃ。読めとるではないか?」
たどたどしく指で文字を追っていく僕を隣で見ていたピサンリは、意外そうに僕を見た。
「………うん。……まあ、ここは、実質、三回目だから………」
僕はズルをしたみたいで、ちょっと言い淀んだ。
読めてる、というより、覚えてる、と言ったほうがよかったから。
「今すぐ、何かが変わるわけではない。
そのうちに、きっと、誰かがなんとかしてくれる。
自分じゃない、誰かが。
ただ、今は、首を竦め、からだを屈めて、やり過ごすとしよう。
多くの者はそう考えた。」
「なんじゃ?えらく、すらすらいくのう?」
「う。
………ここは、ものすごく身につまされてさ。
まるまる覚えてる、ってか………」
だって、僕のことだ、って思ったんだもの。
「そして、それは、多くの者にとって、最善、手でも、あった。
やがて、英雄は、現れ、世界は、救われた。
しかし、もしも、その英雄よりも早く、誰かが、荒廃を、直視して、手を打って、いたら。
自ら、英雄になる勇気を、持つ者が、あったら。
この世界は、もっと、多くの物を、失わずに、済んだ、かもしれない。」
ちょうどそこまでで文章は一区切りで、僕は、ちょっと息を吐いた。
これって、今思えば、ヘルバが書いたんだよね。
つまり、これって、ヘルバの後悔なんだ。
僕にとって、ヘルバは、立派な師なんだけど。
ヘルバ自身にも、こんな後悔があったなんて、なんだかちょっと不思議だ。
いや、もしかしたら、この後悔があったから、ヘルバは、あのとき、あんな思い切ったことをできたのかもしれない。
結果的に、ヘルバのあの力のおかげで、この世界は救われつつある。
まだまだ、この世界には問題もたくさんあるけれど、あとは、この世界の住人の力で、なんとかなるかも、ってところまで来ている。
それも、やっぱり、ヘルバの力だったんだと思う。
「わしは、じいさまが、この書物を書いておったのは知っておったのじゃがのう。
そのころはわしもずいぶん幼かったから、小難しい文章のところはすっ飛ばして、綺麗な紋章の描いてあるところばかり眺めておった。」
ピサンリは、ちょっと申し訳なさそうに笑った。
「もっと早うこれを読んでおったら、じいさまの気持ちもよう分かったのかもしれん。」
「…いいんじゃないかな…」
どこか後悔をしているようなピサンリに、僕は言った。
「ピサンリはヘルバのことは、よく分かってたと思うよ。
この文章を読まなくても。
ずっと一緒にいて、ヘルバの気持ちとか、やってることとか、見てたんだから。
ヘルバとピサンリは本当に、家族みたいだった。」
「そうじゃのう…」
ピサンリは何かを思い出すように、テーブルに並んだ椅子を見つめた。
ピサンリの見ていた場所は、ヘルバの指定席だった椅子だった。
「もしかしたら、人と人は、互いに隅から隅まで知らんでも、絆ができるものなのかもしれん。
そういう相手のことは、後になってから、いろいろと分かることがあっても、だからといって、その相手のことを大切じゃなくなるとか、そういうことはないし、ただ、それもその相手の一部だったのかと、不思議とすんなり受け容れられるものじゃのう。」
「それって、ピサンリが、ちゃんと、ヘルバのこと、分かってたからだよ。」
そうか、とピサンリは僕のほうを嬉しそうに見た。
そうだよ、って、僕は、ちょっと偉そうに頷いてみせた。
そんなふうに僕らは丁寧に読んでいった。
ときどき、平原の民の言葉にはあっても、森の民の言葉にはない言葉もでてくることがあった。
そういうときは、ピサンリは、僕にも分かるように、その言葉の意味を丁寧に説明してくれた。
僕は、平原に来てからもうずいぶん長いような気もしてたんだけど、まだまだ、平原の民のことは知らないんだなって改めて思った。
これはヘルバの書いた文章を読むために始めたことだったけど、そのおかげで、平原の民と森の民との考え方の違い、みたいなものも、少し分かった気がする。
あることを言い表す言葉があるかどうか、そしてその言葉がないとき、それをどんなふうに伝えたら理解してもらえるのか。
そんなことを、ゆっくり話せたのは、とてもよかったんだ。
ピサンリとそうしていると、不思議と、僕も、大精霊のことで思い悩むことも少なくなった。
大精霊が、実在しているかどうかなんて、もうそんなに大事なことじゃないと思ったんだ。
そんな妄想に思い悩む自分を、すごく恥ずかしいって思ってたけど。
今は、自分が恥ずかしいかどうかよりも、ここにあるエエルを、いかにしてみんなに届けるかが、ずっと大事だって思った。
そんなこと悩む時間があったら、少しでも、エエルを皆に届けたいんだ。
そして、そう思えたら、もう妄想だとかどうだとかなんて、どっちでもよくなっていた。
なんてね。
ちょっと偉そうなこと言っちゃったけど。
それにしても、紋章、ってのは難しかった。
紋章ってのは、誰にでも秘術を使えるようにするための、手段みたいなものだ。
エエルを使って紋章を描くことで、エエルに法則を与える。
そうすると、エエルはその法則に則って働く、ってのが、紋章の仕組み。
らしい。
アルテミシアは、その法則すら自分で書き換えることができる。
そうすると、秘術の応用や複合も可能になる。
紋章にはそういう使い方もあるんだ。
この書物に描いてある紋章は、ごくごく基本的な秘術だった。
灯りをつける、とか。風を吹かせる、とか。
これが、眩しい光を灯す、とか、温かい風を吹かせる、になると、応用になる。
そこにいたっては、書物には書かれていなかった。
ただ、水を温める、とか、眩しさを軽減する、って秘術はあるから。
アルテミシアは、これを応用に使ってるんだろうな、って想像はできた。
想像は、できたんだけど。
実際に、それを自分の力でやるとなると…
そもそも、僕にこの紋章を間違えずに再現する、なんてこと…ふぅ。
いやいや。誰だって、何だって、やれば、できる。
はず。
かかる時間は人それぞれかもしれないけど。
僕には、たっぷり時間が必要なのかもしれないけど。
きっと、きっと。やれば、できる、はず。
……………
いくつかはね、実際に発動もしたんだ。
うん。やっぱり、やればできた、んだよ?
だけど、なのさ。
徹底的に、僕には、紋章を正確に覚える、という力がないらしい、ってのが発覚してさ。
で、紋章って、間違って描いても、発動してしまう、ときがあるんだよね。
いや。それ、多分、間違ってないんだ。
ちゃんと、紋章、になっちゃってるんだよ。
ただ、それは、僕が意図した秘術ではないだけ。
ってなるとさ。
水を入れようとしたカップが突然爆発したり。
灯を灯そうとした蝋燭が、突然、爆発したり。
宙に浮かせようとしたクッションが、突然、爆発したり。
いやまあ、爆発、ばかり、させたわけじゃないんだけど。
しかし、爆発、は、結構、多かった、かも。
なんでだろ。
僕、そんな剣呑な性質じゃないんだけど。
そもそも、火、とか、風、とか、いきなりやっちゃ危なそうなことは、やらなかったんだけどさ。
やっぱり、人には、不可能、はなくても、得手不得手、ってのはあるんだ、って。
思い知ったんだ。




