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その夜のことだった。
僕はヘルバの家の前をゆっくりと散歩していた。
こんな夜に外に出るなんて、久しぶりだ。
前に、広場のお祭り騒ぎの片付けをしていたとき以来かも。
あれも、秘術のサイクルのできた木箱のおかげで、僕はなんにもしなくてもよくなった。
そうなってからは、行ってないんだけど。
どっちかと言うと、僕は、夜はちゃんと寝たい方だし。
それなのに、どうして夜中に散歩なんかしてるのかって言うと。
昼間会った光の少女のことが、どうしても気になって、眠れなかったからだ。
どうして見えなくなってしまったのか。
どうしたらまた見えるようになるのか。
からだから脱け出した中身だけ、になれば会えるような気もするんだけど。
どうやったら、その、中身だけ、になれるのかが、分からない。
いろいろ試してみたけど、どれもうまくいかなかった。
こんなとき、ヘルバがいたらなあ。
ヘルバがむこう側へ行ってから、もう何度もそう思ったけど。
今は、一番、そう思ってるかもしれない。
最初のころ、僕は、秘術について、あまり積極的に習おうとはしてなかった。
そういう難しいことは、ルクスとアルテミシアにお任せしておきたい、って気持ちも強かった。
そのくせ、そんな自分のこと、役立たずだ、なんて思っててさ。
なんか、情けないよね。
自分から頑張ってみよう、とか、僕はあんまり思ったことなくて。
僕には無理って、いつも思ってた。
まあ、実際、そういうことが多かったってのは事実。
ルクスもアルテミシアも、すっごく格好よくて、立派な、すごい人だけど。
僕みたいな凡人が、あんな人たちの傍にいると、本当、自分の不出来を思い知らされるって言うか。
もちろん、ルクスもアルテミシアも大切な友だちだし、誰より、僕は、あのふたりのこと、心から応援してるんだけど。
なんか、僕ができなくても、ふたりがやってくれちゃうから、それに甘えてたって言うか。
けど、この一年、あのふたりから離れて。
いやもう、ふたりとも、すっかり僕の手の届かないくらい高いところに行っちゃったなって思うけど。
ふたりに助けてもらえない分、僕は、僕で頑張るしかないなって状況になってて。
だから、僕なりに、頑張ってきた、と思う。
っても、僕は、ここで、待ってただけなんだけど。
結局、ヘルバの木も、白枯虫からは完全に守ることはできなくて。
折れちゃったときには、本当に、どうしようかって思った。
ぎりぎり光の少女が間に合ってくれて、本当、助かったよ。
あ。なんだ。
結局、僕は、ここでも助けてもらってたのか。
ちょっと、笑っちゃった。
でも、いいじゃない。
それで、世界は平和ならさ。
僕が役に立たなくても、うまくいったんなら。
そんなものは、小さなことだよ。
そのときだった。
頭のなかに、あの少女の、鈴を振るような声が響いてきたんだ。
「こんばんは。」
ふへっ?
僕は、きょどきょどと辺りを見回した。
そして、あの昼間、少女がいた辺りが、ぼんやりと光っているのに気が付いた。
「君なの?」
「きれいな夜ですね。」
少女のいる場所は、僕のいたところからは少し離れていたんだけど。
その声は、頭のなかに、くっきりと聞こえていた。
急いで僕は、少女のところへと駆け寄って行った。
昼間、あんなに、姿を見ようとしても見られなかったのに、今はどうして見えるんだろう、とか。
やっぱり、少女の見える条件があるのかなあ、とか。
今の僕、中身だけじゃないのに、見えるんだなあ、とか。
もしかして、少女が目を覚ましたから、見えるのかなあ、とか。
いろんな考えが、次々と、頭の中をぐるぐるしていた。
昼間ほど眩しくはなかったけれど、少女はぼんやりとした光に包まれて、昼間の姿のままで、そこに立っていた。
「ずっと、そこにいたの?」
「ええ。」
「もしかして、動けないの?」
「…?…ええ…」
「ずっと動けなくて、辛くないの?」
「………ええ………」
「あの、よかったら僕、そこから脱け出すの、手伝おうか?」
「え?」
少女はゆっくりと首を傾げた。
その仕草はどこかヘルバに似ていた。
「脱け出す?」
少女はゆっくりと僕にそう聞き返した。
「だって、木に捕まってるんでしょう?」
「いえ、あの、わたくしは、この木、そのものですよ?」
「え?」
「えっ?」
驚いた僕の一瞬後に、つられたみたいに少女も驚いた。
「まさか、木、なの?」
「えっと、こちら側に来るには、容れ物、が必要で…」
少女はたどたどしく説明しようとした。
まどろっこしい少女の説明をまとめると、どうやら、あちら側、の存在には、こちら側で言うところの実体がないらしい。
だから、なにか、こちら側に、いわゆる中身を収める容れ物、が必要なんだ。
「なんで、木、にしちゃったの?
木は動けないし、不便じゃないか。」
「容れ物は、なんでもいい、というわけにはいかないのです。
わたくしとの親和性と申しましょうか、そういうものも必要で。
それに、先に誰かの入っている容れ物は、使えませんし…」
「それで、その木がぴったりだったの?」
「ええ、もう、本当に、それはそれは。
これほどにわたくしとぴったり合う容れ物は、他にはないと思います。
この木はわたくしのために、ずっと待っていてくれたのじゃないかと思うほどに。
これほどに、安心して、居心地のよい場所は、他にはきっとありません。
こちら側へ来ることは、少々、怖い部分もありましたけれど。
この木になれて、いっそ、あちら側にいたときよりも、心は満たされ、永遠の至福を手に入れた心地と申しましょうか。」
ふうん。
そんなに、いい感じなんだ。
それなら、まあ、いいっか。
「ずっと、突っ立ったままで、しんどくはないの?」
「わたくしはまだ、こちら側の世界については、そう詳しくはないのですが…
木というものは、そういうものなのではありませんか?」
確かに。
木にずっと立ったままでしんどくないのかなんて尋ねるのも、バカなことだ。
「わたくしは今、こちら側の世界について、いろいろなことを学んでいる最中です。
おかしなことを申しますかもしれませんけれど、どうか、わたくしに、この世界についてお教えください。」
少女は優雅に頭を下げた。
「あ、それは、僕に分かることなら…」
僕は焦ってちょっと不格好なお辞儀を返した。
「だけど、昼間は、君のこと、見えなくなっちゃってさ…
ねえ、ここに来れば、いつでも君に会えるのかな?」
それは、是非とも聞いておきたい。
少女はちょっと首を傾げたから答えた。
「わたくしもまだ、こちら側の世界に完全に波長を合わせられていないのかもしれません。
けれど、ここから移動することは、ありませんから。
どうぞ、またここに、いらしてください。」
そっか。
僕はにんまりと笑った。
また会えるんだ、って思ったら、妙に、胸の中がくすぐったいようなそんな感じだった。




