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家の中に入った途端、僕の耳には、ピサンリの大号泣が聞こえてきた。
え?ちょ、どうした?
慌てて厨房に下りて行ったら、床に横たわる僕の傍で、大泣きしているピサンリがいた。
あれ?
これって、どういう状況なんだろ。
なんで僕、あんなところで寝てるの?
まるで、奇妙な夢を見ているみたいな感覚だ。
とにかく驚いてそっちへ駆け寄ったら、突然、ぐっと何かに引っ張り込まれるような感じがして、いきなり、ずっしりとからだが重くなるのを感じた。
いや、違うな。
これは、からだが重くなった、んじゃなくて、その前の僕が、重さをまったく感じない状況だった、んだ。
気がついたら、僕は床に横たわっていて、目を開いたら、すぐ目の前に、ものすごい顔になって泣いているピサンリの顔があった。
ぎょっとして思わず目を見開いたんだけど、後ろに引こうにも、僕は仰向けに床に横たわっていて、これ以上、後ろには引けなかった。
「え?
ええっ?」
けど、目が合った瞬間に、ピサンリのほうが、思い切り後ろにのけ反ってくれたから、とりあえず、助かった。
ゆっくりとからだを起こすと、ピサンリは腰を抜かしたみたいにそこにへたり込んでいた。
僕は、くらくらする頭を振ってから、ピサンリのほうを見た。
「あの。
これはいったい…」
全部言う前に、僕は、ピサンリに激しく抱きつかれていた。
ピサンリは力いっぱい僕を抱きしめて、涙やら鼻水やらこすりつけながら、盛大に頬ずりをした。
いや。あの。
それ、ちょっと、あれなんだけど…
多分、これは、あれだな。うん。きっと、あれだ。
こんなに強く抱きしめられたら、本当に息、止まっちゃうかも、って思ったけど。
多分、そのくらい僕は、ピサンリのことを心配させたんだろうから。
息が本当に止まる直前くらいまでは、この状況を甘んじようと思った。
少しして、ピサンリは、気が済んだのか、からだを離して、僕の顔をまじまじと見つめた。
「生きて、るん、じゃな?」
「あ。うん。生きてるよ?」
よかったあーーー、と、もう1セットピサンリが大号泣するのを、僕は辛抱強く待っていた。
うん。
有難いじゃないの。
こんなに心配してくれる人ってさ。
「お前様、いきなり笛を吹き始めたかと思うたら、また突然、ここに倒れてしもうて。」
泣きながらピサンリは状況を説明してくれた。
それは僕の予想した通りだった。
僕は、泉の歌に合わせて笛を吹いていたら、そのまま光の雫になって、水滴たちに導かれるように、天井をすり抜けて外へ行っていた。
多分、光の雫になったとき、僕のからだは、抜け殻みたいに、このまま気を失って、ここに残ったんだ。
それを見て、ピサンリはびっくりしたんだろう。
「何をしても目を覚まさんから、わしは、てっきり…」
「いや、ごめん。
僕もまさか、こんな事態だとは…」
ピサンリは僕の顔を注意深く見つめて尋ねた。
「これも、秘術か何か、なんかの?」
「うーん、どうだろ。
僕にもよく分かんないや。」
こういうときヘルバに聞けたらどんなにかいいのにって思うけどさ。
僕もまだ、秘術のことには、そんなに詳しくないし。
つくづくヘルバには、もっと教えてほしいことがいっぱいあった。
そうだ。
あの少女も、僕と同じ、ヘルバの弟子なんだっけ。
後で、あの光の少女に尋ねてみようか。
しかし、あの子、そんな頼りになるかな?
なんかさ、尊い存在、ってのは、もう、間違いないんだけども。
そこに疑いを差しはさむつもりは、微塵もないんだけれども。
頼りになるのか、ってところは、思いっきり、当てにならない、って、いやあの、僕の本能?みたいなところが、叫んでる、かもしれない。
「それよりさ、ピサンリ。
助けてほしいことがあってさ。」
少女のことを思い出した僕は、急いでピサンリに言った。
「とにかく、ちょっと、来てくれないかな?」
立ち上ろうとして、僕はひどくふらついた。
どうにも、からだから脱け出していた僕は、まだ自分のからだに慣れてないみたいだ。
からだが重くて、立つのも歩くのも、こんなにバランスを取るのが難しかったっけ、って思った。
ふらつく僕を、ピサンリは慌てて支えてくれた。
有難く支えてもらって、僕は、ピサンリと一緒に家の外に出た。
再生した木を見たピサンリは、それはそれは目を大きく見開いた。
今朝、折れた木を見たとき以上に驚いていた。
そしてそこには、街中から大勢の人が押しかけてきていた。
ヘルバの木は、街中から目に入る。
多分、枯れていくのも、それから、折れてしまったときも、その姿は大勢の人から見えていたんだろう。
ときどき、様子を見に来る人がいるのにも気づいていた。
ただ、僕は、言葉の通じない彼らと話すのが怖かったから、人の姿を見かけるときは、外に出ないようにしていた。
だけど今は、これまでのどんなときよりも大勢の人々が集まっていた。
その人たちは、家の中から現れた僕らを見ると、一斉にこっちへ駆け寄ってきた。
とっさに家の中に引き返しかけたけど、たまたま僕が前にいたもんだから、後ろのピサンリにひっかかって、中に逃げ損ねた。
せめて、ピサンリに前に出てもらって、僕はその後ろに隠れようとした。
僕よりずっと小さいピサンリの後ろに、完全に隠れるなんて、もちろん、無理だったけど、ピサンリの後ろにしゃがみこんで、僕は必死にからだを小さくしようとした。
と、そのときだった。
ぽんっ、という音とともに、僕のからだは小さくなった。
あっという間に、周りの人たちが大きくなってぎょっとしたけど。
僕は小さな羽虫になっていて、急いで、ピサンリの襟のところに潜り込んだ。
周りにいた人たちは、突然、僕の姿が見えなくなって、なにやら騒いでいた。
いやでも、多分、もっとそれ以上に、木を指差して、ピサンリに何か言っていた。
みんなの勢いはすごかったけど、なにかに怒っている、というふうではなかった。
ただ、何かを急いで尋ねたい、そんな雰囲気だった。
ピサンリは、みんなを宥めるように手で抑える真似をしながら、何事か話していた。
みんな固唾を呑んで、ピサンリのその話しを聞いている。
おう、というどよめきが拡がって、みな、周りの人たちを視線を交わしながら頷きあっていた。
しばらく彼らはピサンリに何か話した後、三々五々、帰っていった。
ピサンリの肩を励ますようにぽんぽんと叩く人もいた。
僕はうっかり叩き潰されないように、襟のなかを逃げ回った。
とにかく、酷いことにならなくてよかったと、僕はほっとした。
誰もいなくなってから、僕はそっとピサンリの襟から脱け出した。
すると、するすると、元の姿に戻っていた。
「今のも、秘術かの?」
ピサンリは僕を振り返って尋ねた。
うん、多分、って僕は頷いた。
「よく、分からない。
笛も使ってないし。
だけど、怖い、小さくなりたい、って思ったら、虫になってたんだ。」
あの感じは秘術っぽいと僕も思う。
「なんか、前よりすぐに、秘術が起こってしまうみたい…」
ちょっと制御不可能な感じに、困ってるんだけど。
「もしかして、今、ここにはエエルがたくさんあるのではないか?」
ピサンリのその意見に、僕は大きく頷いた。
「あ、うん。そうなんだ。
あの、光の少女がさ…」
っと、そこで、僕は、ピサンリを連れて外に出てきたわけを思い出した。
「あ、そうだった。
だからさ、ピサンリ、早く、来て。」
僕はピサンリの腕をつかむと、少女の眠る辺りへと連れて行った。




