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膝をついたまま、僕は目を上げることもできなかった。
この尊い存在を、直接見るなんて、とてもじゃないけど、無理だった。
拳を胸に当て、最上級の礼儀を以て、僕はただじっと固まっていた。
「…あのう…」
鈴を振るような声、というのは、こういう声を言うのだろう。
あまりに心地よい声に、ぞくっとした。
「…あの、えっと、もしもし?」
その声は、けれど、耳から聞こえる音、ではなくて、頭の中に直に響いてくる声だった。
多分、きっと、僕らとはいろいろと違った存在なのだろうと思った。
「え、っと、ここは、どこ、ですか?
ごめんなさい。
わたくし、いつの間にか眠ってしまったみたいで…」
どうやらこの尊い存在は僕らと言葉は通じるらしい。
ふいに、それに気づいて、急いで返事をした。
「ヘルバの木、です。
石の街の。」
畏れ多くて僕は俯いたまま言った。
顔を上げるなんて、到底、無理だ。
まあ、と少し息を呑んだ気配があった。
「ヘルバさま。
そう、ヘルバさまは、どちらに?」
「ヘルバはここにはいません。
アマンの地へ行ってしまいました。」
「あまん…?」
「おそらく、あなたさまが元おられた世界かと。」
「そうでした。
ヘルバさまも確かに、そんなことをおっしゃっておられました。
それでは、わたくしは、無事にあちら側へ渡ることができたのですね?」
彼女の言うあちら側、というのは、あちら側から見たあちら側。
つまり僕らにとってのこちら側、ということなんだろうな、なんて、ぼんやり考えた。
「自分はもうあちら側には戻れないのだと、ヘルバさまはおっしゃってました。
わたくしは、ヘルバさまのいつもの御冗談かと思っていたのですけれど…」
冗談?
へえ。
ヘルバってば、この方に冗談とか言ってたんだ。
もっとも、あのヘルバなら、そういうこともあるかな、って思うけど。
「ヘルバとは、親しく?」
「ヘルバさまにはいろいろなことを教わりました。
ヘルバさまは、わたくしを導いてくださる師でした。」
こんな尊い存在から、師、と呼ばれるヘルバってすごいって素直に思った。
僕にとっても、ヘルバは、いろんなことの先生って感じだったけど。
それが、ヘルバって人なのかもしれない。
「僕も、ヘルバからいろんなことを習いました。」
「まあ。そうなのですか?
そんな方とお会いできるなんて、うれし…」
突然、言葉が途切れたのに驚いて、僕は思わず目を上げた。
ずっと、直接見るなんて畏れ多くて、下をむいたまま会話を続けていたから。
すると、光の少女は、わずかに口を半開きにして、そのまますやすやと眠っていた。
「あ。
あのぅ…」
話してる最中に寝ちゃったんだろうか?
にしても、こんな、話しの途中で、寝られる?
いやいや。
この方はあちら側からこちら側に渡ってこられたばっかりなんだし。
それって、ものすごく体力を消耗してるのかもしれないし。
そもそも、そんなふうに疲れてる人を、こんなところに立ちっぱなしで、いろいろしゃべらせてるなんて、僕も、酷いことしちゃったのかも。
いろんなこと、頭の中にぐるぐるしたけど、まずは、寝床に横にして楽にしてさしあげないと、と思った。
思ったんだけど…
ん?
そもそも、この方に僕は手を触れていいんだろうか。
こんな尊い存在に手を触れるなんて、そんな畏れ多い…
いやでも、こんな、立ったまま寝てるなんて、しんどいよねえ?
横にさせてあげるくらいはいいんじゃないの?
しかし。
この非力な僕に、人ひとりの体重なんて、持ち上がるはずがない。
それに。
そもそも、それ以前の問題として。
僕の手は、この方に触れることは、可能なんだろうか。
いや、あの、畏れ多いとか、遠慮、とかは、脇に置いておくにしても。
普通に、物理的に接触可能なの?
尊い存在は、光が少女の形をとったような姿をしている。
とっても眩しい光で、そのむこうが透けて見えることもないんだけど。
どう見ても、物質、には見えない。
試しに、本当に、こんなことして大丈夫なのかなと思いつつも、いやいや、まずそこ躊躇ってたら、何も始まらない、と思って、恐る恐る、それでも、一応、衣の端っこを、そっとそっと、つまもうとしたんだけど…
はっ!
やっぱ、ダメだ。
衣に手を触れる直前で、僕ははじかれたように手を引っ込めた。
寝ている女の子の衣に手を触れるとか、絶対にダメ。できない、って。
そんなことしたら、アルテミシアに、こっぴどく叱られる。
いや、今ここにアルテミシアはいないけど。
きっと、あのアルテミシアなら、どこにいても、僕に戒めの矢を打ってくるくらいする。
少女は立ったまますやすやと寝息を立てていて、これは辛くないのかな、とか、よくこんな格好で寝られるなとか、思うんだけど。
これってもしかして、本人にとっては、立ってる、のじゃないのかもしれないな。
つまりは、僕らにとって、上、とか、下、とか感じるのは、この世界にある、重さ、ってのの影響を受けてるからで。
けど、この方には、そういうこの世界の物理法則とか、そういうのは、影響してないように見える。
だから、もしかしたら、この状況は、この方にとっては、寝台に横になっている、状態なのかもしれない。
それに、不躾なのを承知しつつ、よくよく観察してみたら。
少女の足先は、ヘルバの木に溶け込むように融合していて、つまり、この少女は、木のなかに生えている、みたいになってるんだ。
確かに、人の姿をしているけれど、人じゃない、ってのは、最初から思ってた。
人というより、木の化身という感じだ。
いや、この方は、ヘルバの木を通って、あちら側からいらした方で。
木の化身ではないんだけれども。
ヘルバの木から、ちゃんと脱け出していない?
うん。そんな感じ。
いやいや~。
もしかしてさ、まだ、ちゃんとこちら側に到達してなかったの?
こんな中途半端なところで、寝ちゃうかなあ?
尊い存在に、こういうこと言うなんて、畏れ多いんだけども。
いや、あの、これ、僕、どうしたらいいんだろう?
しばらく迷ってたんだけど、そうだ、ピサンリを呼びに行こう、って、思い出した。
そういや、ピサンリはどこにいるんだろう?
確か、地下の厨房に下りたところまでは一緒にいたはず。
水浸しになった厨房を見て、息を呑んだ声は聞いたと思う。
僕は、大急ぎで厨房へと下りていった。




