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ヘルバはピサンリの汲んできた水を一息に飲み干した。
「さて。
そうと決まったからには、ぐずぐずはしていられません。」
おもむろに姿勢を正し、瞑想に入ろうとしたヘルバに、僕は驚いて声をかけた。
「え?
まさか、もうすぐに行くって言うの?」
「そうですよ?」
何を、当たり前のことをとでも言いたそうに、きょとんと首を傾げて、ヘルバは僕を見た。
「今、この瞬間が、わたくしの体力も最大ですし、この世界の持ち時間も最大なのですから。
善は急げ、ですよ。」
いや、それはそうかもしれないけど…
「あの。
いろいろと、その。
旅の準備?とか…」
するとヘルバは、ふふ、と笑った。
「準備など、必要ありません。
そもそも、この方法じゃ、あちらには、何も、持って行けませんからね。」
「何も?」
「何も。」
「それじゃあ、ご飯とか、どうするの?」
僕は真面目に聞いたんだけど。
ヘルバは、ふふ、と笑った。
「あちらに行けば、食事の必要はないそうです。
もっとも、嗜好としての食事は可能だと聞きますけれど。」
「じゃあ、ご飯、食べないの?」
「食べなくても大丈夫なのですよ。」
そう言われてもな。
アルテミシアのパイを美味しそうに食べていたのを思い出して、なんだか胸が詰まった。
「ヘルバってば、意外と食いしん坊なのに?
それに、あの、お酒は?
お酒はどうするんだよ?」
僕は、とにかくなんでもいいから、ヘルバを引き留めたかったのかもしれない。
「ああ、それは、少し、残念ですね。」
ヘルバは明後日のほうをむいて、ちょっと笑った。
「そう。なら、いつか、気のむいたときにでも、この木の根元にかけてやってください。」
「木にお酒なんかかけて、大丈夫なの?」
「少しなら問題ありませんよ。
そうすればきっと、根を通して、わたくしにも届きますからね。」
そうなんだ。
「そんなことより。
後のことは、しっかり頼みましたよ。」
ヘルバはちょっと念を押すみたいに僕を見た。
「この世界を、守ってくださいね?」
世界を守るなんて、そんなこと、僕らにはできっこないよ。
だけど、それは口に出しては言えなかった。
ヘルバはそのためにむこうへ行くのに。
そして、もう、帰ってこられないのに。
「また会いましょう?」
ヘルバはさっきピサンリにしたみたいに、僕のことも胸に抱き寄せてくれた。
そのまま、小さく、呪文を唱えはじめた。
呪文を唱えるヘルバの声はとても優しくて、温かかった。
それはどこか子守歌のようだった。
僕は、幼子のように、ゆっくりと微睡んでいった。
眠気なんか、さっきまでまったく感じなかったのに、今は抵抗し難い睡魔に、ゆっくりと引きずり込まれていた。
微睡みのなか、見えたのは、故郷の森。
まだ仲間たちと郷にいたころ見た景色。
見上げると、さやさやと、一面の風に揺れる樹冠。
ふかふかした地面を駆ける僕らは、今より少し幼い。
大地も、風も。森も、光も。
切り立った崖も。さらさらと流れる沢も。
ありとあらゆるものに宿る力は、大いなる恵みとなって、世界を潤している。
そこはまだ調和のなかにあって、僕らはそのゆりかごのなかで育てられた。
幸せな微睡みは、突然聞こえた素っ頓狂な声に破られた。
「ああ、そうだ。
これを言っておくのを忘れてました。
憤怒や憎悪。狡猾や残虐。
そういったものに、エエルはとても弱いのです。
エエルを失わないためには、そういったものをできるだけ減らすこと。
なんて、あなた方には、わざわざ言う必要など、ありませんでしたかね?
まあ、年寄りの戯言だと、聞き流してください。」
え、ちょ、それって、もっとちゃんと聞いておかないといけない、大事なことなんじゃないの?
睡魔は一瞬のうちに去っていた。
ぎょっとして顔をあげた僕は、ヘルバの姿が、ゆらゆらとまるで風のなかに溶けるみたいに、薄れて消えかかっているのを見た。
「ヘルバ!」
言わなくちゃいけないことはたくさんあるはずなのに、聞かなくちゃいけないこともたくさんあるのに、僕には、ヘルバの名前を呼ぶのが精一杯だった。
ヘルバは、ふふ、と楽しそうに笑って付け足した。
「それから、木にまくお酒は、ちゅ………」
そうしている間にも、ヘルバの姿はどんどん薄くなって、とうとう最後まで言わないうちに消えてしまった。
後には、ただ、呆然と、今の出来事を見守る僕らだけ残された。
ヘルバの座っていたベンチには、ヘルバのいたところにほんのわずかなぬくもりだけ残して、けれど、それもすぐに、失われてしまった。
「ヘルバ!!!」
僕は、ベンチに取りすがった。
涙は、不思議と出てこなかった。
大きな声で名前を呼ぶ他に、なにも、できなかった。
さわさわと、風が木の梢を揺らしている。
それはまるで、ヘルバの返事のようだった。
ゆっくりと、ピサンリは僕の隣に膝をついて、僕の肩を抱きしめてくれた。
僕なんかより、ピサンリのほうが、ずっと悲しいだろうって、僕はようやく気づいた。
僕は、ピサンリのことを、ぎゅっと抱きしめた。
そのぼくらをふたりまとめて、アルテミシアが抱きしめた。
そうして、一番外から全員まとめて、ルクスが抱きしめてくれた。
僕らは、みんなして、しばらくそうしていた。
その間ずっと、さわさわと、風に揺れる木の葉の音が聞こえていた。




