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さやさやと木の葉が揺れる。
ヘルバはそれをずっと愛おしそうに見ている。
それはまるで、ふたりが会話をしているようにも見えた。
「アニマの木には、あちら側からこちら側へと渡る通路があると言います。
ただ、この木は、こちら側で生まれたから、通路は持たないのです。」
ヘルバはそう話しを始めた。
「ただ、根はあちら側に届いています。
ですから、その根を通れば、あちら側に渡ることも不可能ではありません。」
根を通る?
そんなこと、可能なんだろうか。
同じことを思ったんだろう。
ルクスが言った。
「根を通るなんて、そんなこと、できるのか?」
ヘルバはあっけないくらいあっさり、できますよ、と頷いた。
それから、ちょっと笑って、付け足した。
「多少、強引な手段ですけれどね。」
ヘルバの笑顔には不思議な力があって、僕らはいつも、その笑顔に励まされてきた。
不安なときも、大丈夫だって、不思議なくらい安心できた。
だけど、このときは、違った。
僕は、ますます不安ばかり胸のなかで大きく膨らむのを感じながら、ただ、話すヘルバを見ていた。
「アマンの地には、この世界とは比べ物にならないくらい大量のエエルを生み出す存在があるという話を、大昔、どこかで聞いた気がするのです。」
ヘルバはずっと遠くを眺める目をして言った。
「かくなる上は、もはや、その存在に会い、説得して、こちら側に来ていただくしかないと。
わたくしは、あちら側へ渡り、それをしようと思うのです。」
「…そんな、どこかで聞いた、程度の話しを信じて、あちら側へ渡るって言うのか?」
アルテミシアが尋ねた。
その声は淡々としているようだったけれど、その裏側で、いろんな気持ちを押し殺しているのが分かった。
あちら側へ渡る。
それは、片道だけの一方通行。
一度、あちらへ渡ってしまえば、二度とこちら側には戻れない。
それに、いくら物知りのヘルバだって、あちら側のことは、話しに聞いているだけだ。
あちら側がいったいどういう状況かも、はっきりとは分かってないと思う。
その話しだって、どの程度、確実なのかも分からない。
どこかで聞いた話、なんて不確かなものを信じて、戻れない旅、に出立するなんて、この場の全員、賛成なんかできるわけなかった。
「活性化、では、根本的な解決にはなりません。」
黙り込んだ僕らに、ヘルバは言った。
その声は、さっきより少し、低かった。
「それに、わたくしにはもう、この方法以外のことは、できそうにないのです。」
「…絆の木が、白枯虫にやられてしまった、から?」
僕は声を絞り出した。
「それって、僕のせいだよね?
僕が活性化なんかしたから、白枯虫に気づかれてしまった。」
絆の木が弱ってしまったのだとしたら、そのせいでヘルバが弱ってしまったのだとしたら。
それみんな、僕のせいだ。
僕はヘルバの顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「どうしても、あちら側、へ行かなくちゃいけないってんなら、僕が行く。
もし、ヘルバのからだが弱っているなら、なおさら、そんな状態で行かせられるわけがない。」
ヘルバは優しく微笑んだ。
僕を見つめるその瞳は、深い思慮と、限りない慈愛を湛えていた。
「これは、わたくしにしか、できません。
絆の木と人とは一心同体。
わたくしなら、木の根を通り、あちら側へと行けるのです。」
「…僕には、行けないって、こと?」
「少なくとも、この木を使うことはできません。」
「じゃ、じゃあ!
アニマの木を探せば?
郷のみんなみたいに、アニマの木の通路を使えば、あちら側へ行けるんでしょう?」
「…アニマの木の居場所を、あなたはひとつでも、ご存知ですか?」
ヘルバは僕の言うことを頭から否定はしなかった。
だけど、静かにそう尋ねた。
僕は、首を横に振るしかなかった。
「知らない。
でも、探すよ。
ないわけじゃない。
この世界には、あちら側に通じる木はいくつもあるんでしょう?」
確か、そう言ったよね?
ヘルバは、笑って、ゆっくりと頷いた。
「ええ。
しかし、そのどれも、巧妙に隠されたところにあります。
そして、アニマの木には意志があり、木自身が見つかることを望まなければ、人の力で、それを見つけることは不可能なのです。」
「…僕には、見つけられない?」
「あなたたちの郷のお仲間は、あなた方を、この世界に残す種だと決めましたからね。」
つまり、僕らじゃ、あちら側には渡れない、のか…
僕はからだから力が抜けたみたいに、膝をついた。
その僕を、ヘルバの手が、そっと支えてくれた。
「有難う。
あなたの優しさは、いつも、何よりも、わたくしを癒してくれました。」
この期に及んで、そんな優しい言葉はいらない。
僕は、顔を上げて、きっとヘルバの目を睨んだ。
ぼろぼろと零れてくる涙なんかに、もう構っていられなかった。
ヘルバはきれいな指を伸ばして、僕の涙をそっとぬぐってくれた。
「大丈夫。
それに、あちらの世界には、エエルが常に満ち溢れていると言いますから。
きっと、わたくしのからだも、またよくなると思います。
それに、あちら側では、常にエエルは生み出され、枯渇することもありません。
あちら側では、人も獣も、永遠に変わりなく、健やかにいられると言いますよ。」
「そう、なの?」
ヘルバが元気になれるなら。
活性化のときみたいに、一時的なことじゃなくて、もっとずっと、元気でいられるなら。
僕は、今、ヘルバを引き留めるべきじゃない、のかな。
ヘルバは僕を励ますように、微笑んだ。
「本当は、もうずっと前から、こうするべきかと考えていました。
ただ、わたくしは、意気地がなくて、なかなか決心をつけられなかった。
しかし、これがうまくいけば、この世界の崩壊は完全に止められる。
だとすれば、十分にやる価値のあることだと思います。」
不思議だ。
出立しようとしているのは、ヘルバで、本当なら、励ますのは、僕のほうなはずなのに。
どうして、今僕は、こんなふうに、慰められてる、みたいなことになってるんだろう。
「本当に、それしかないのか?」
ヘルバに確認するルクスの声も低かった。
きっと、多分、ルクスだって、全然平気じゃないんだって思った。
ヘルバは頷く代わりに、僕らの顔を順番に見回して、微笑んだ。
「そうか。
とうとうじいさまにも、その時がきたのか。」
ぽつりとピサンリの声が聞こえた。
水を汲んで、戻ってきたのだった。
ヘルバが伸ばした腕のなかに、ピサンリは飛び込んできた。
このふたりは、親子にも、祖父孫にも見えると思った。
つまりは、家族なのだと思った。
「一度はその旅立ちを見送ったあなたが、今またここに戻ってきて、今度はわたくしを見送ってくれる。
嬉しいことです。」
ヘルバは、静かに言った。
「あなたの、先々先々先々…ずっと前のご先祖様から、わたくしはここでその旅立ちを見送ってきました。
だから、わたくしのことも、見送ってくれますね?」
ピサンリは何も言わなかった。
ただ、ヘルバの胸に顔を埋めていた。
声は押し殺していたけれど、その肩は小さく震えていた。




