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最初に白枯虫に気づいたのは、たまたま、外にいたアルテミシアとピサンリだった。
ふたりは市場へ買い物に行った帰りだった。
ふたりの悲鳴を聞いて、家の中にいた僕らも駆け付けた。
ヘルバは、とてもお年寄りとは思えないくらい、とてつもない速さだった。
ルクスは作りかけの何かの道具を両手に持っていたし、僕は水を張った桶を抱えたままだった。
その光景に、僕らは全員、一瞬、呆けたように、魅入っていた。
無数の白枯虫は、大樹を覆い尽くして、まるでそれは、白く輝く無数の光が、木を光り輝かせているようだった。
だけど、その僕を我に返らせたのは、ブブの羽音だった。
ブブは高く舞い上がり、僕は、すぐさま、祓い虫を呼んだ。
祓い虫たちは、あっという間に、白枯虫を退治していった。
虫たちの戦いの終わった後のヘルバの木は、ところどころ虫にやられてしまったけれど、まだ、全体としては、全然大丈夫そうに見えた。
白枯虫と祓い虫の戦いを見たのは、ヘルバは初めてらしかった。
その戦いを、ヘルバはただじっと見つめていた。
戦いの終わった後には、大量のエエルの石が落ちていた。
それを拾ったヘルバは、大きく嘆息して言った。
「これは、エエルの固着。
彼らは、エエルをこの世界に固定しているのですね。」
なんのことだろう、と思って、ヘルバを見ていたら、ヘルバは続けて言った。
「この世界に残っているエエルを、彼らは少しでも温存しようとしているのです。
白枯虫は、木に含まれるエエルを集めている。
発散され薄められると、エエルは消滅しやすくなりますから。
それを防ごうとしているのです。
祓い虫はそのエエルを石に固めて、こうして大地に還しているのです。」
そうだったんだ。
僕は、白枯虫と祓い虫のことを、ようやく分かった気がした。
僕らが、この世界のエエルをどうにかしなくちゃ、と思っているように、他の生き物だって、この世界を守ろうとしているんだ。
「しかし、こんなところにまで、このようなものが、やってくるとは…」
ヘルバはまた大きなため息を吐いた。
「いよいよ、森は、大変なことになっているのかもしれません。」
そうだった。
僕らがこの街に滞在している間も、白枯虫たちは、あちこちの森を枯らしている。
通ったところは、できる限り浄化してきたけど、まだまだこの世界に森はたくさんある。
いや、あれを、浄化、と言っていいのかどうかは、今となっては分からない。
だって、白枯虫は、森を枯らしている、んじゃない。
森にあるエエルを、この世界に繋ぎとめようとしている、んだから。
だけど、それでも、エエルを奪われれば、森は枯れてしまう。
森が枯れたら、森に生きるものたちは困る。
「虫たちを止めるためには、やっぱり、エエルを増やすしかないの?」
「そうですね。
そこが根本的に解決されない限り、彼らは森のエエルを奪って固着することを続けるに違いありません。」
そっか。
やっぱり、そこが根っこなんだ。
「もしかしたら、活性化したことは、こいつらを呼ぶことになったんじゃないか?」
ルクスの意見に、ヘルバは、確かに、と頷いた。
「それも、あるかもしれません。
おそらく、この場所からは、強力なエエルの匂いを、辺り一面にまき散らしている、状態でしょうから。
しかし、それはあくまでも、活性化、されたのであって、エエルを増やしたわけではありません。
この虫は、おそらく、木のエエルしか集められないのだと思います。
しかし、この街には、木は、一本しかありませんから。
虫たちも、たくさんのエエルがあると思って押しかけたら、思ったほどのエエルがなくて、がっかりしたかもしれませんね。」
ヘルバは冗談めかしてそう言ったけど、その顔の笑みに力はなかった。
世界のエエルが失われていくことは、人だけじゃない、他の生き物にとっても、大問題なのだと思った。
木を調べながら、ヘルバはとても悲しそうだった。
あちこち、虫にやられてしまったところは、まるで傷跡のように木に刻みつけられていた。
それをいたわるように、ヘルバは丁寧に木を調べていたけれど。
いきなり、がくっと、膝をついた。
慌てて駆け寄った僕らに支えられながら、ヘルバは力の抜けた笑みを浮かべた。
「いよいよ、これは、心を決めるときが、きました。」
心を決めるとき?
それって、どういうこと?
言い知れぬ不安に僕は襲われる。
ヘルバの話しを聞きたくないって思う。
ヘルバはそんな僕じゃなくて、ピサンリのほうを見て言った。
「ピサンリ。泉の水を一杯、汲んできてもらえませんか?」
「分かった。しばし待たれい。」
ピサンリは大急ぎで駆けていく。
すると、ヘルバは、残った僕らに、ベンチに座らせてほしい、と頼んだ。
あの、早朝や夕方、よくここに座って遠くを眺めていた、ヘルバのお気に入りのベンチだ。
ベンチに腰掛けたヘルバは、少し斜め上を見上げて、木を眺めた。
大樹は、それに応えるように、残った葉っぱをさやさやと揺らした。
「あなた方は、ご存知でしょうか。
森の民には、この世界のどこかに、強い絆で結ばれる木があるという話しを。」
僕らは一斉に頷いた。
それは、おとぎ話、みたいなものだけど。
森の民なら、知らない人はいない話しだった。
「わたくしの絆の木はねえ、この木なのですよ。」
ヘルバはそう言うと、とても愛おしいものを見つめる目をして、木を見上げた。
木はまた、さやさやと葉っぱを鳴らした。
僕らはみんな、息を呑んだ。
その話しは知ってたけど、まさか、現実に絆の木を見つけた人がいるとは思わなかった。
絆の木は、この世界のどこかにある、とは言われているけれど、見つけることはほぼ不可能だと分かっていた。
だからこそ、その話しは、おとぎ話に過ぎないと、みんな思っていた。
同じときにこの世界に生を受けて、死の訪れるとき、また、木も枯れる。
僕は胸のなかがざわざわするのを感じながら、ヘルバの木を見上げた。
白枯虫にやられて、弱ってしまった木を。
「絆の木を見つけられる人は滅多にいません。
これほどの幸運を、わたくしは与えられました。
そうして、そのときから、もうずっと、この木と共に生きてきました。」
もしかしたら、ヘルバが、この街に居続けたのは、この木から離れられなかったからかもしれない。
僕はそんなことを思った。
「また、なんの因果でしょうか。
よりによって、わたくしの絆の木は、アニマの性質を持っていました。」
アニマの木。
遠く、アマンの世界とこの世界を、次元を越えて繋いでいる木。
「不思議なのですよ。
この木はね、最初からアニマの木だったわけではありません。
芽を出したのはこちら側で。
けれど、長く長く生きて、大きく大きく育つうちに、あちら側へと、根を伸ばしていったんです。」
そういうこともあるんだ。
僕は、頭上の木を改めて敬意を込めて見上げた。
「木の内側に泉が沸いたとき、わたくしは、この木が、あちら側とこちら側とを繋いだのを知りました。
…もしかしたら、彼は、仲間たちと離れて、この地にひとり残ったわたくしのために、仲間たちの行った地とこちら側を繋いでくれたのかもしれません。」
この木なら、そんなことも、してくれそうだ。
見上げた僕の目の端っこから、ぽろっと涙が零れて落ちた。
「前回の滅びのときに、わたくしの郷の仲間たちは、みんな、あちら側へと渡りました。
けれど、わたくしは、この木と共に、この地に残りました。」
お酒が好きだから、ってのは、もしかしたら、ただの言い訳だったんじゃないだろうか。
もちろん、ヘルバがお酒が好きなのは、嘘じゃないけど。
ただ、ヘルバは、ひとりになったことを、絆の木のせいにはしたくなくて、そんなふうに言い続けたのかもしれない。
「とにかく、この木は、そのくらいわたくしにとって特別な木なのです。」
そう言って、ヘルバはもう一度、大樹を見上げた。




