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見なくても、手の持ち主は分かった。
僕は、ごめん、と言った。
声にはならなかった。
エエルたちの祭りの奔流に、僕のからだはもみくちゃにされていた。
ルクスは僕の手を捕まえているだけで、精一杯のようだった。
このままじゃ、僕の手を掴んだルクスごと、流れに巻き込まれると思った。
だけど、ルクスは、決して、僕の手を離そうとはしなかった。
そのとき、反対側の手も、誰かに掴まれた。
その手はさっきの手よりもっと力強かった。
流れに逆らって、僕のからだを引き上げる。
両手を引っ張られて、僕は少しずつ、そちらへと連れ戻された。
はっと気づくと、ルクスの腕のなかだった。
後ろには、ピサンリがへたり込んでいるのが見えた。
「戻りますよ。」
ヘルバの気丈な声がした。
しゃんと立ち、髪をなびかせながら、そこにヘルバは立っていた。
ヘルバは宙に見事な紋章を描いた。
これほど緻密で複雑な文様を目にしたのは生まれて初めてだった。
それは、別の世界へと続く扉だった。
扉のむこう側はどこに続いているのかは分からなかった。
いや。
そもそも。
僕らのいるこの場所は、いったいどこなんだろう?
腰掛けていたはずのヘルバの木も見えないし、足元には地面もない。
辺りには濃厚なエエルの気配が満ちていて、僕の踏みしめているのも、多分、エエルだった。
上も下も右も左も、みっちりとエエルのつまった場所に、僕らは押し合いへし合いしながら閉じ込められている、といった状況だった。
ヘルバの描いた紋章は、まるで扉のようにぱっくりと真ん中から縦に割れると、左右に開いた。
僕を抱えたルクスが、真っ先に扉を潜る。
それに、ピサンリとヘルバがすかさず続いた。
ヘルバの後ろ髪が通り抜けたぎりぎりのところで、ぱたん、と扉が閉じた。
僕らは、真っ暗な場所に閉じ込められていた。
右も左も上も下も分からない。
完全な真っ暗闇。
鼻をつままれても分からない、というのは、こういうのを言うのだろうなと思った。
だけど、僕はようやくここで少し、一息吐けた。
ねっとりとした暗闇は、闇の中なのに、不思議と恐怖は感じなかった。
夢も見ないでぐっすり眠るときの、眠りの中のようだった。
「みんな、無事か?」
ルクスの声がすぐ近くで聞こえた。
僕の肩をずっと支えてくれてるのはルクスだった。
「わしは、無事じゃ。」
「わたくしも、問題ありません。」
左右からピサンリとヘルバの声もする。
どの声も落ち着いていて、痛そうだったり、苦しそうだったりはしなかった。
「ちょっと待ってくださいね。」
ヘルバがそう言うのが聞こえて、すぐに、ぽっと灯りがついた。
ヘルバが手を伸ばした先に、ほんのり灯りをつけたのだった。
「お怪我は、ありませんか?」
ヘルバは僕の傍に屈みこむようにして、灯りを僕の顔に近づけた。
ぼんやりした灯りの中に、ヘルバの穏やかな微笑みだけ見えた。
「…ごめん、僕…」
「まったくだ!」
いきなりパシリと後ろから頭をはたかれた。
いつもより、少し、力が入っていた。
「本っ当に、お前ときたら、いっつもいっつも…」
「ごめんなさい。」
ルクスはいつもより怒っているみたいだった。
僕は謝るしかできなかった。
「せめて、一言、わしらに声をかけてから、やってくだされよ…」
ピサンリの声にも、困ったやつだ、と思ってる気持ちが、滲んでいた。
「…ごめんなさい…」
僕には謝ることしかできない。
自分のした過ちは、自分が一番よく分かっていた。
「まあまあ。
おかげで、わたくしも、ほら、またこんなに元気ですよ?」
ヘルバだけ、とりなすように言ってくれたけど。
ピサンリは盛大なため息を吐いた。
「じいさまのそれは、から元気、年寄りの冷や水じゃ。
またそれで調子に乗っていろいろやっては、燃料切れを起こして、その前よりもっと状態が悪くなる。
それは、あとから百倍ダメージをくらう劇薬を、がぶ飲みするようなものじゃ。」
そうなの?
僕はヘルバの目をじっと見た。
ヘルバは、ちょっと視線を逸らせて、へらっと笑った。
「今のわたくしは、たとえ後でツケを払う羽目になっても、動けるものなら動きたいと、思ってしまって。」
それから、もう一度僕の目を真っ直ぐに見て言った。
「あなたのお蔭で、またしばらくは動けるようになりました。感謝します。」
「だから、それは!」
言いかけたピサンリの言葉を、ヘルバは穏やかに遮った。
「もうずっと長い間、穏やかに暮らしてきましたから。
今くらいは、無理もしたいのですよ。」
「そういう時期もある、ってのは理解する。
けど、あんたの無茶に、こいつを巻き込むのはやめてくれ。」
ルクスの低い声がそう言った。
僕は、しょんぼりと首をすくめた。
今は、何の反論も、する権利はないと思った。
そうしたら、ルクスが大きなため息を吐いて、そうして続けて言った。
「と、言いたいところだけど。
んなの無理だってのは、俺にももう分かってる。
だから、おい。」
ルクスは僕の肩をぎゅっと掴んだ。
「なにかやるなら、俺たちにも言え。
黙ってひとりでやろうとするな。
俺たちも、お前のやることを、頭ごなしに否定するのは、やめるから。」
「そうじゃそうじゃ。
そもそも、わしは、お前様のやることを、いかん、などと言ったことはないぞ?」
うん。それは、そうだよね。
ピサンリは僕の手をぎゅっと握った。
僕はさっき僕を引っ張り上げてくれた力強い手を思い出した。
僕のしたことは、ルクスとピサンリを傷つけてしまったんだって気づいた。
僕は、ふたりのことは信用できないって、言ってしまったようなものだった。
「ごめんなさい。」
さっきとは違う気持ちを込めて、僕はもう一度謝った。
ルクスとピサンリが、ちょっと力を抜いて笑った気配がした。
「分かったならいい。
さてと。
ここからはどうやって出るんだ?」
ルクスはあっさりと言った。
ヘルバは、あー、はいはい、とまた紋章を描き始めた。
それはさっきよりもう少し分かりやすい紋章だった。
もっとも、僕には、逆立ちしたって、真似なんかできそうになかったけど。
ルクスなら、一回見ただけで覚えてしまいそうだって思えるくらいだった。
「あ。それでいいなら俺が描くのに。」
ルクスは、もうその紋章を知っているような口ぶりだった。
「それ、便利だよな。
起点に戻れ、だっけ?」
そんな秘術もあるんだ。
やがて、そこにまた扉が開いた。
さっきの扉より、少し小さめだった。
だけど、開いた先の景色が、見えていた。
それは、僕らの世界への扉だった。
平穏に毎日を暮らす僕らの日常に続く扉だった。
今度は自分の足で、僕はその扉を潜った。




