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今現在、この世界に存在するエエルは、減ることはあっても、増えることはない。
ヘルバはそう言った。
「エエルは形を変えたり、性質を変えたりしつつ、この世界全体を循環しています。
秘術はその過程で起こされるもの。
古代の人々は、秘術をたくさん使っても、エエルは消滅することはないと考えていました。
それゆえに、際限もなく、秘術を使い続けました。
そもそも、秘術とは、エエルたちが、自ら望んで起こしてくれるもの。
けれど、古代の人々は、秘術の研究を進め、エエルの望まぬ秘術をも、強引に起こさせる技術を発展させていきました。
秘術は少なからずエエルにとっては負荷となります。
ましてや、望まぬ秘術を無理やり起こさせられたエエルたちは、負荷に耐えきれず、崩壊し、消滅しました。
そうして、この世界のエエルは、減らされていったのです。」
それはもう、終わってしまった、昔の話しだけど。
消滅していったエエルたちのことを思うと、胸が痛い。
エエルは、いまだに、よく分かってる、とは言えない相手だけど。
以前よりもう少し、身近に感じられるものになっていた。
優しくて、淋しがり屋で、いつもわらわらと群れている。
怒ったり、悲しんだりすると手がつけられなくて、だけど、こっちが悲しいときには、寄り添って慰めてくれる。
それは、幼いころから馴染んだ森にも似ているし。
ずっと一緒にいる友だちにも似ている。
最近の僕のエエルに対して思っているのは、そんなイメージだった。
増やすことのできないエエルの力を増幅するために、活性化する。
人数は増やせないけど、みんなを励まして、元気になってもらう、って感じ。
そうすれば、ひとつひとつのエエルの力も増大して、強くなる。
疲れて消滅しそうなエエルも消滅から救えるし、元気なエエルは、秘術を起こす力になる。
だけど、何より、僕が、もう一度、活性化をしようって考えたのは。
ヘルバの健康のためだった。
何も知らない僕が、うっかり活性化してしまったとき、ヘルバはすっかり健康を取り戻したように元気になったから。
あれをもう一度できないものかな。
日を追うごとに、僕のその思いは大きく強くなっていった。
最近のヘルバは、少しずつ、活力を失っていくようだった。
毎朝毎晩、僕は、ヘルバのなかにあるエエルを力づけるために笛を吹いた。
だけど、その効果は、ほとんどないように思えた。
ここ数日は、僕の脱け出した寝台に、ヘルバはまた逆戻りしてしまった。
そこの居心地のよさは、僕にもよく分かっているけど。
普通に元気なら、一日中、寝ていたいはずはなかった。
やりたいことはあるのに、その気力がなくて、寝ているしかない。
そんなヘルバに、僕はもう一度、元気になってほしかった。
あのときに比べたら、僕も多少はエエルについて分かっているつもりだった。
その力の大きさも。危うさも。
そして、優しく、思いやりに溢れた存在だということも。
彼らの感情も読み取れるようになってきたし、僕の意思も伝えられるようになった。
だから、うん。
今ならきっと大丈夫。
だけど、僕は誰にも内緒で、それを決行することにした。
ルクスに言ったら、絶対にダメだって言われるだろうし。
ヘルバも、もしかしたら、ダメだって言うかもしれない。
怖いのも危ないのも、嫌だ。
だけど、ヘルバがこんなふうに花のように枯れていくのは、もっと嫌だった。
時間はまた夕刻を選んだ。
早朝のほうが、僕と相性のいいエエルはたくさんいるって分かってたけど。
夕刻だって、べつに、相性が悪いってわけじゃないし。
前にやったときだって、夕方だったから、大丈夫だろうって思った。
それになにより、夕食前のその時間は、みんなにとって忙しい時間で、ちょっとくらい僕の姿が見えなくったって、わざわざ探したりしない、って思ったんだ。
それ以外の時間だと、大抵、ピサンリがぴったり僕にくっついてきていたから。
でも、夕食の支度をしている間は、ピサンリは大忙しだし、その間、たいてい僕はヘルバの傍にいたから。
ヘルバには、今夜のご馳走はちょっと特別だから、僕もピサンリを手伝うんだって、嘘をついた。
嘘をつくのに、ちくっと心が痛んだけど、どうしたって、これは必要なことだからって、自分に言い訳をした。
外に出ると、暮れ方になっていた。
遠く、夜と昼の交わる辺りは、少しずつ夜の色に馴染みつつあった。
目を閉じ、深呼吸をひとつして、僕は、風の音を聞いた。
さわさわとたくさんのエエルの気配を感じた。
ヘルバの木は、エエルたちの親玉みたいな存在で、だから、この場所には、たくさんのエエルがいつも集まっている。
こんなにたくさんいるのに、ついこの間までは、まったく気づいてなかったんだな、っておかしくなった。
このまま笛を吹いたら、中に聞こえて、すぐにもルクスに連れ戻されてしまいそうだ。
だから、僕は、あえて笛は出さずに、ただ、心のなかで呼びかけた。
僕を、君たちの場所へ、連れて行って。
さわり、と風が僕を持ち上げる。
ちょっとぞくっとしたけど、怖いってほどじゃない。
このくらいのことは、もう僕もできるようになっていた。
エエルたちに連れられて、僕はヘルバの木のあの特等席にいた。
ヘルバの木は、僕のために、背もたれと手すりを用意してくれる。
もうこれもなくても、そこまで取り乱すことはなくなってたけど。
せっかくの好意だから、有難く、受け取った。
ヘルバの木は、もてなしの水も出してくれた。
多分、僕が気紛れを起こして遊びにきた、くらいに思ってるんだろう。
さわさわとたくさんのエエルたちが寄ってきて、僕の膝に乗ったり、髪の毛をひっぱったりした。
僕は有難く水をいただいてから、ゆっくりと笛を吹き始めた。
この街の、石の街の歌を。
僕の周りのエエルたちは、歌に聞き入り始めた。
この街のエエルなら、この歌がなにより一番だと思った。
どこにだって、その場所の歌、ってのがあるけど。
そこに居るモノたちにとっては、自分の居場所の歌ってのは、特別なものだと思う。
石の街の歌は、力強くて、荘厳で、複雑な歌だ。
本当だったら、笛の音色より、もっと違う楽器のほうが、合ってるかもしれない。
だけど、僕にはこれしかないから。
精一杯、吹くしかない。
今日は特別な秘術だから、リョウシュの笛を使っていた。
この笛はまだ、うまく使いこなせていないんだけど。
それでも、この笛の力の大きさは、今の僕には魅力があった。
どうかどうか、力を貸してほしい。
僕の大切な仲間が、元気になれるように。
僕は心を込めて吹いた。
強い願いは、強いエエルになる。
ヘルバはそう言っていた。
だから、僕は、強く強く願った。
リョウシュの笛の音色は、土笛より清んでいて、遠くどこまでも響いていくようだった。
ぞわぞわと気配が蠢くのを、僕は全身で感じていた。
この笛は湖のヌシさえも動かしたことを、僕は思い出した。
大きな力の気配がした。
これだけあったら、世界全部救える気がした。
世界が救えるなら、自分はどうなってもいいとも思った。
次の瞬間、突然、巻き起こった奔流に、僕は巻き取られ、押し流された。
そのときになって、ようやく、恐怖心を僕は思い出した。
エエルたちにもみくちゃにされながら、僕は、必死に何かにつかまろうとした。
彼らは陽気に盛大に祭りを楽しむようだった。
僕は彼らに捧げられた供物だった。
僕の内側にある力を、彼らは引っ張り出し、貪った。
そうして、大いに歓声を挙げた。
エエルの暴走だった。
彼らはもう、優しくて穏やかな存在じゃなかった。
騒ぎに酔い、辺りを滅茶苦茶にすることに歓びを感じていた。
それはどこか、毎夜繰り広げられた、あの広場の騒ぎにも似ていた。
僕の力は、彼らに喰い尽くされて、もう残っていなかった。
このままじゃ、多分、僕という存在は消滅するしかないだろう。
だけど、助けは、どこからもやってこなかった。
ルクスの怒った理由をようやく理解した。
ヘルバにすら秘密にしたことを、僕は後悔していた。
いや。
でも、これにヘルバを巻き込まなかったことだけは、よかったんじゃないかな。
それだけは、僕、自分を褒めてあげるよ…
そのくらいしか、褒められることはなかった。
ゆっくりと僕は目を閉じ、意識の尻尾を手放そうとした。
そのときだった。
僕の手を、ぎゅっと握りしめる誰かの手を感じた。
うんとうんと小さい頃、森に大雨の降った後、沢に遊びに行って溺れかけたときのことを思い出した。
あのときみたいに、その手はぎゅっと僕の手を掴んで離さなかった。




