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それからもヘルバとの訓練は続いた。
ヘルバは教場の先生みたいに、今日はこれとこれを学びましょう、みたいに準備はしてくれない。
いつも、行き当たりばったりに、いきなり実地から入る鬼師匠だ。
だから予想外の展開も多くて、怖い目や危ない目にもたくさん遭った。
だけど、いつも、一番肝心なときには、的確な助言をしてくれたし、本当に命に関わるほど危険なときには、ちゃんと助けてくれた。
だから、僕には小さな生傷はたくさんできたけど、治らない怪我はしなかった。
思えば、あのときに、ちゃんと怖い目に遭ったから、僕には、エエルの危うさもよく分かったのだと思う。
秘術はとても素晴らしい力だし、エエルたちはみんな善意の塊なんだけど、使い方を誤れば、とても恐ろしい結果を招くのだと、つくづく骨身に染みて理解した。
いつの間にか僕は、エエルを、目に見えないお友だち、のように感じるようになっていた。
エエルはこの世界のありとあらゆるものに宿っていて、姿は見せないし、声も聞かせてくれないけれど、確かにそこにいるものだった。
エエルは性質や感情を持っていて、たとえば、力を貸してくれるときにも、違う種類のエエルは違う力の貸方をする、というのも理解した。
その感情のほうも重要で、たとえば、エエルの機嫌のいいときと悪いときとでは、起こる秘術に違いのあることも分かった。
エエルの宿る物質が姿を変えれば、エエルもまた違うものになる。
器のエエルは、器を割ったら、破片のエエルに変わってしまう。
破片になった器は、元の器と似た性質も持っているけれど、元の器にはなかった性質も持つ。
たとえば、器のエエルには攻撃的な要素はあまりないけれど、破片のエエルには攻撃の要素が加わってしまう、みたいに。
器は受け容れる力が大きいけれど、破片は打ち破る力が大きい。
器はのんびり大らかな性質だけれど、破片はどこか悲しみを背負っている。
そういうことも、ひとつひとつ、実地で理解していった。
エエルたちはいつもものすごい善意の塊で、僕の心を先読みしては、秘術を起こしてくれる。
ときには、高みに放り上げられたり、川に投げ込まれたり。
高いところは怖いし、僕は泳げない。
だけど、エエルにそんなことは分からないから、エエルにとって気持ちのいい場所に、心からの善意で、ご招待、してくれるんだ。
だから、僕は、エエルには、ちゃんと、僕のことを伝えるべきだ、と学んだ。
うん。これ、大事。
本当に、大事。
エエルは生き物じゃないことも多いから、命を失う、ことへの恐怖を持たない。
それは、生き物、の僕が、絶対にエエルに伝えなくちゃいけないことだ。
エエルにも、恐怖、の感情はあって、だから、ちゃんと伝えれば、理解してくれる。
大事なのは、ちゃんと、伝える、ことだ。
だけど、これがまた、難問だった。
ちゃんと、伝える、って本当に難しい。
こちらの意図と、相手の受け取る内容とが完全に一致するなんて、この世には皆無なんじゃないかと思う。
ほぼ合ってる、ならオッケーくらいに思っとかないと、やってられない。
だけど、ほんのちょっとのすれ違いは、秘術においては命取りになりかねない。
だから、秘術って難しい。
正直、あんまり使いたくはない。
だけど、僕の周りのエエルたちは、もう、待ったなしだから。
だから、僕は、なるべく、感情を高ぶらせたりせず、なるべく、冷静に、を心がける必要があった。
なんてこと、無理!
無理だよ、もちろん。
僕は毎日のように予想外の目に合わされ、悲鳴を上げ、怒りを爆発させ、ときどき、エエルたちはわざとやってるんじゃないかって、思いながらも、訓練を続けた。
ヘルバはそんな僕を見て笑ってた。
こんの、鬼師匠!
ルクスやアルテミシアは紋章を使って秘術を起こす。
紋章ってのは、エエルにこちらの意志を伝えるための、いわゆる定型みたいなものだとも理解した。
だから、紋章を使えば、ほぼ間違いなく、こちらの意図を正確にエエルに伝えられるんだ。
あとは、エエルの気分次第で、効果に多少の差はあるみたいだけど。
それは、困るほどのことでもなかった。
だから、僕も、本当は、紋章を使えたら、よかったんだけど…
使えるものなら、もっと早く、使ってるんだよ。うん。
…なんでダメなのかなあ…
何回か再挑戦もしてみたけど。
やっぱり、僕にはダメだった。
いろいろと試してみて、僕が辿り着いたのは、結局、やっぱり土笛だった。
笛を吹くとき、僕は決して冷静じゃない。
むしろ、感情はかなり高ぶってしまうと思う。
だけど、その僕の気持ちに、エエルたちは、ものすごく真っ直ぐに反応してくれるんだ。
エエルたちは、僕の笛が好きなんだ、ってヘルバは言う。
そうなのかな、って、僕もちょっと思う。
笛を吹くと、あちこちからエエルの気配が集まってくるのを感じるし、そのエエルたちは、大きな潮流になって、秘術を引き起こしてくれるんだ。
笛を吹くとき、僕のなかには、邪念がない、ってヘルバは言う。
そうして、エエルは、邪念のない心が何より好きなんだって。
…そうなの?
そんなこと言われても、よく分からないんだけど。
だいたい、邪念って、なに?
ヘルバは僕の質問には、いつも即座に答えてくれる。
だけど、その答えのなかには、分かりません、というのも結構、ある。
ヘルバに分からないものは、僕にはもっと分かりっこないって、そういうときいっつも思うけど。
分からない、と言うとき、ヘルバはよくこう付け加える。
今は分からなくても、分かる時には分かる。そういうものですよ。
そうなの?
けどもう、それ以上は、どうしようもないから、僕は黙るしかない。
僕は、ずっと、土笛は、好きだから吹いていた。
それから、それを喜んでくれる人のために吹いていた。
それに新しい目的が加わった。
エエルに思いを伝える、っていう。
だけど、エエルは僕の笛が好きみたいで、それを喜んでくれてるみたいだから。
喜んでくれる人のために吹く、ってのと、実はそんなに変わらないのかもしれない。
笛を使えば、圧倒的に、エエルたちは、僕の予想外の結果はもたらさなくなった。
僕も、笛になら、気持ちを乗せることは、それほど難しくなかった。
だから、僕が笛を吹くことで秘術を起こす者になるのは、必然だった。
吹くのは土笛ばっかりじゃなかった。
ほら、あの、川沿いのリョウシュにもらった家宝の笛。
あれも、試してみた。
そしたら、結果に圧倒的な違いがあるのに気づいた。
リョウシュの笛は、とにかく、効果がすごいんだ。
びっくりするくらい大きな秘術を引き起こす。
流石家宝だ。スケールが違う。
だけど、その分、細かいところにはむかない。
微調整、とか至難の技。
多分、こっちのほうが遠くに音を響かせるから、よりたくさんのエエルを呼び集めるんだ。
だから、集まる種類も、途方もなく多くなる。
そうすると、エエルの干渉が起こって、あ、その辺は、ヘルバが言ってたんだけど、とにかく、そのせいで、秘術がとてつもなく大きくなったり、予想外の展開になったりする。
今の僕には、ちょっとまだ、使いこなせない感じ。
二回くらいリョウシュの笛を使って、すっかり懲りたから、僕はまた、土笛を使って、訓練を続けることにした。
いつの間にか、僕は、この街で、笛使い、と呼ばれるようになっていた。
訓練はヘルバの木の傍でやってたんだけど、まあ、完全に人目につかなかったわけでもないし。
たまたま、その様子を見た人が、他の人にそれを話したりして。
いつの間にか噂になってしまったようだ。
そうでなくても、森の民は、石の街じゃ珍しいから、否が応でも目立つんだ。
街を歩くときには、フード付きマントを頭からしっかり被って、姿を隠したりしてたんだけど。
それって、余計に目立ってたみたい。
賢者様、よりは、よっぽど僕に合ってると思うし、僕自身、笛使い、って、呼ばれるのって、悪くないな、って、気もしたんだけど。
ただ、僕の笛は、完全に自己流だし、ちゃんと笛を極めた音楽家の人たちに比べたら、それこそ、遊びの域なわけだから、なんだか、そんなふうに呼ばれるのは申し訳ないって、気もしないでもないような…
けど、まあ、そこは、笛名人、とか呼ばれてるわけでもないし。
大目に見てもらっちゃおう、ってことに、しておこう、かな…




