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とくん、とくん、とくん…
耳の中に響くのは、僕の鼓動だろうか。
幹に反響しているのか、それはびっくりするくらい大きく聞こえた。
とくん…
まるで呼応するように、幹の内側からもそんな音がした。
僕は、はっとして、そのままもう少し、耳をすませた。
とくん、とくん、とくん…
…とくん、とくん、とくん…
ふたつの鼓動が、少しずれて、まるで追いかけっこをしているみたいに鳴っている。
とくん、とくん、とくん、とくん…
…………くん、とくん、とくん…
遅れていたほうが、あえてもう少し遅らせて、そうして、先へ行くほうへ、ぴったりと合わさった。
!!!
これは、何の衝撃だろう。
言葉にならない何かが、突然、胸を打った。
とくん、とくん、とくん
とくん、とくん、とくん
ぴったりと合わさったふたつの鼓動が、共振する。
どくん、どくん、どくん…
合わさった鼓動は、大きな潮流のように、僕の意識をさらった。
気づくと僕は、ヘルバの木の枝に腰掛けていた。
風が、僕の髪を弄んで吹き過ぎていく。
地上では感じなかった風が、ここにはさらさらと吹いていた。
いつの間にこんなところへ上ったのか、さっぱり分からない。
いや、そもそも、僕には、誰の手も借りずに木に上る力なんか、ない。
だけど、僕は、高いところの枝に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、そこから遠くの景色を眺めていた。
我に返った僕は、はるか遠くの地面を見下ろして、ぎょっとした。
恐怖にパニックになりかけた僕の背中を、そっと隣から支えてくれたのはヘルバだった。
ヘルバは僕の隣に並んで腰かけていた。
「今、いったい、何が…」
起こったの?は、口のなかにいたまま、出てこなかった。
そのくらい僕は動転していた。
そもそも、こんな高いところは怖い。
いや、早く下りたい。
だけど、自力で下りるなんて、絶対に無理だし。
ここで叫んだら、ルクスは助けに来てくれるかな。
飛び下りるなんて、あり得ないんだけど。
どうやったら無事に地面の上に帰れるのか、僕は真剣に悩んだ。
「顔を上げてごらんなさいな。
いい風が吹いていますよ。」
隣にいるヘルバは、全然、まったく、僕のパニックなんかお構いなしに、呑気に風に吹かれている。
ヘルバの長い髪を、風がさらさらとなびかせていた。
「以前は、よくわたくしも、ここに招待されたものです。
ここは、特等席なのですよ。」
「…僕は、地面に足の着くところが、いいです。」
そう言ったら、ヘルバは、あははと笑い出した。
「心配はいりません。
彼はあなたを落としたりはしません。
安心して任せていれば、大丈夫ですよ。」
その信頼はいったいどこからくるんだろう。
僕もそうなれたらいいんだけど。
びくびくと周りを見回していたら、すっと、目の前に枝が一本伸びてきた。
ヘルバの木は、まるで腕みたいに枝を曲げて、それを僕らの前に伸ばしてきたんだ。
「怖かったら、そこにおつかまりなさいな。」
僕は有難くつかまらせてもらうことにした。
すると、後ろのほうにも、すっと枝が一本伸びてきた。
それはまるで背もたれみたいに、僕らの後ろ側を支えてくれた。
「怖い思いをさせてしまったことを、後悔しているみたいです。」
ヘルバはそう説明してくれた。
「けれど、これは彼なりに精一杯のおもてなしなのですよ。」
「おもてなし?」
すると、目の前の枝の上に、すっとカップがふたつ現れた。
カップのなかにはきれいな水が入っていた。
「さあ、どうぞ。召し上がれ。泉の水です。」
ヘルバはカップを取ると、ためらいもなく口をつけた。
僕も真似してカップを取った。
恐る恐る水を飲んだら、下の水盤の水より、さらにもっと美味しい気がした。
「直接、彼の地から汲んできたものですよ。
とても新鮮な水です。」
ヘルバの説明を聞いて、なるほどと思った。
少し落ち着いて、恐怖心が薄れたら、ここはとても居心地のいい場所だと気づいた。
ヘルバの木の精一杯のおもてなしは、すごく嬉しかった。
だから何か、お礼をしたいと思った。
ヘルバにそう言うと、ヘルバは、少し考えてから言った。
「なら、あなたの何か、好きなことをひとつ。
彼に教えてあげてください。」
「好きなこと?
ルクスとアルテミシアとピサンリとヘルバと…」
「それは、好きな人、ですね?」
「あ、そっか。
じゃあ、ピサンリのご飯を食べることと、アルテミシアのお手伝いと…」
ひとしきり思い付くまま挙げていくのを、ヘルバはにこにこと聞いていた。
「…お天気のいい森を歩くこと。
あ、雨でもいいよ?」
「あなたには、好きなことが本当にたくさん、おありなのですね?」
それって、褒めてる?けなしてる?
にこにこと言うけど、ヘルバの真意が分からなくて、僕は、とりあえず口を噤んだ。
ヘルバはまたちょっと考えてから言った。
「あなたの歌を、彼に聞かせて差し上げては如何ですか?」
「歌?」
そっか。お礼って言ったら、やっぱり、それしかないか。
他に僕にできそうなことなんて、ないもんね。
僕は首にかけた笛を取り出すと、そっと構えた。
すると、辺りの気配が、なんだか、すっと、緊張したように感じた。
「…なにを、吹こう?」
「あなたの故郷の歌を。」
そっか。やっぱり、お礼なんだから、一番、慣れてて上手なのがいいよね。
僕が小さいころから、ずっとずっと聞こえていた森の歌。
たとえ聞こえなくなっても、いつだって吹ける歌。
いや、本当は聞こえなくはなってなかったんだっけ。
だとしても、今はそこから遠く離れてしまってるから、直接は聞くことはできない。
それでも、絶対に忘れたりはしない歌。
僕は静かに笛を吹き始めた。
懐かしい、故郷の歌。
静謐、恩恵、慈愛…
森が僕らに与えてくれるものに、いつもの感謝を捧げる…
豊かな森を讃え、感謝の気持ちを伝えて、共にある未来を祝福する。
この一瞬の慈しみは、未来永劫続くものと変わらず。
永遠の平穏は、またこの一瞬に在る。
さわさわと、木の葉擦れの音が鳴る。
それはまるで、僕の笛の歌と一緒に歌ってくれてるみたいだ。
森の歌は、木にとっては、心地いいものなのかもしれない。
いや、多分、この歌なら、木じゃなくても、石でも川でも、喜んでくれると思う。
だって、本当に、優しい歌だもの。
何もかも全部赦されて、優しく包み込むような…
次第に僕は自分の吹く笛の音に没頭していった。
恐怖はもう、僕の内側には残っていなかった。
ただただ、素晴らしい歌を丁寧に再現したくて、それだけに夢中になっていた。




