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ピサンリのご飯とアルテミシアのお薬と、それからみんなに優しく甘やかしてもらって、僕はすぐに起きられるようになった。
あんなに寝心地のよかった寝台も、元気になると、そこにいるより、起きて動きたくなる。
過保護なルクスは、まだ無理なんじゃないかって心配したけど。
僕は、早速、ヘルバについて、エエルと心を通わせる訓練をすることにした。
ある気持ちのいい朝。
家の外に出て、ヘルバと僕はむきあって立った。
これから何をするんだろう、って、僕はちょっとどきどきしていた。
「あなたのお話しを聞いていて気づいたのですけれど。」
ヘルバは僕を見て言った。
「あなたは、エエルを、歌、として感じていらっしゃるのではないでしょうか。」
「歌?」
「ええ。
森の歌。街の歌。滝の歌…
あなたはよく、歌、とおっしゃいますよね。
その、歌、が、わたくしの感じるエエルと同じものなのではないかと。」
歌、かあ。
僕は試しに耳をすませてみる。
…
……
………
だけど、今の僕には、何の歌も聞こえない。
「…ごめん。聞こえない。」
なんだか期待を裏切ってるみたいな気になって思わず謝ってしまった。
「なにも。謝ることはありませんよ?」
ヘルバはちょっと笑って言ってくれるけど。
気まずい僕は言い訳をするみたいに続けた。
「…僕さ、昔は、もっとずっと歌が聞こえてたんだ。
森も、草も、花も。みんなみんな歌ってた。
歌が聞こえているのはずっと当たり前だったし。
もちろん、うるさい、なんて思うわけじゃなくて。
ずっと、聞こえるのが、普通、だったんだ。」
つっかえつっかえ話す僕の話しを、ヘルバは、じっと聞いていてくれる。
「だけどね?
白枯病の森の焼いたときから、僕には、なにも、聞こえなくなってしまった。
森の歌も。花の歌も。
ときどき、なにかの拍子に、どどっと歌が流れ込んでくることはあるんだけど。
普段は、なにも聞こえない。
もう一度、森の歌を聞きたい、って、ずっとずっと思ってるから、こっそり何回もチャレンジはしてるんだけど。
…聞こえないんだ。」
ヘルバは、ふむ、とも、むう、とも聞こえる相槌をした。
それから僕の目を見て尋ねた。
「どどっと歌が流れ込んでくる、とおっしゃいましたね。
それはどんなときですか?」
「どんなとき?
……どんなとき……」
どんなときだったろう。
少し考えたけど、僕は首を振った。
「ごめん。分かんない。
前は、ほんのかすかになら、森の歌も聞こえたんだけど。
今は、もう、まったく、聞こえないし。」
「以前は、ほんのかすかに聞こえることもあったんですね?」
ヘルバは僕の言葉の思ってもみなかったところを繰り返した。
僕は恐る恐る頷いた。
「……う、ん……」
ヘルバは下をむいた僕の視線をすくいあげるように、また目を合わせた。
「あなたは、どうして、歌、が聞こえなくなったのだと思いますか?」
突然、話を変えられて、びっくりした。
「へ?
どうして?
それは、僕は、森を傷つけてしまったから、森はもう僕なんかに、歌、を聞かせてはくれなくなったんじゃないか、って…」
「森はね、そんなにケチじゃありませんよ?」
「け、ケチ?」
「ああ。言い方がまずかったですね。
森はもっともっと大きなものです。
それに、あなたは、森を傷つけたのではなく、森を救うためにそうしたのでしょう?
そのくらいのことは、森はちゃんと分かっていますとも。
あなたも、森の民なら、森の器の大きさは、よくお分かりなのではありませんか?」
「…それは、もちろん、知ってるけど…」
「知っている。
知っている、と、分かっている、は似ているけれど、少し違います。
あなたは、知っているけれど、分かっていない、のですね?」
「いやあの。分かってます。ちゃんと。」
挑発するようなヘルバの言い方に、思わずむっとして言い返したけど。
その勢いで顔をあげた僕の目を、正面からヘルバは捕らえた。
僕の目を見つめて、ヘルバは、一言一言区切るみたいに、ゆっくり言った。
「ならもう、ご自分に、罰を科すのは、おやめなさい。」
「罰を、科す…?」
「彼らの歌を聞いてはいけないと、あなたの耳を塞いでいるのは、あなたご自身です。」
「耳を塞いで、なんて、僕は…」
してない!って言おうとしたんだけど。
本当かな、って、言葉が胸のなかにぽっかり浮かんで、それに阻まれて、僕は何も言えなくなった。
僕は、耳を塞いでなんか、ない?
本当に?
本当は、僕は、ずっと耳を塞いでたんじゃないか?
「森も街も、あなたにずっと話しかけようとしているんですよ。
けれども、あなたは無意識にその声に耳を塞いでいるんです。
なにかきっかけがあれば、その声は、どどっとあなたに届くようになるのでしょう?
それは、彼らは、あなたに歌を届けようとしているから。
けれども、しばらくするとまた、あなたは、無意識に耳を塞ぐ。
すると、また聞こえなくなる。」
僕はヘルバの言葉についていこうと必死だった。
必死に頭を回転させて、その意味を理解しようとした。
そうして、思わず尋ねていた。
「…どうして、僕は、耳を、塞ぐんだろう?」
いや、それは僕のしていることで、それをヘルバに尋ねるってのも変かもしれないんだけど。
それでも、僕はそれをヘルバに尋ねてしまっていた。
多分、ヘルバはすごく自信たっぷりに話しているから、ヘルバなら、それも分かってるんじゃないかって、感じたんだ。
「罪の意識。」
そうして、ヘルバは僕の予想を外さずに、完結に答えてくれた。
「罪の意識?」
「あなたはおそらく、森をとても愛していたのでしょう。
森もあなたのことを愛してくれた。
それはあなたもよく分かっていた。
知らなくても、自覚しなくても、あなは、分かって、いたのです。
幼いころから、いいえ、生まれたときから、ずっと。
あなたにとって森の歌はその証だった。」
???
ヘルバの話しはよく分からない。
分からないけれど、僕は、余計な質問ははさまずに、もう少しじっと聞いていようと思った。
「あなたにとって、森の歌は、とても大切なものだった。
あなたを慰め、励まし、癒してくれるものだった。
けれど、森を傷つけてしまったとき、あなたはもう、自分には森に優しくされる資格はない、とそんなことを考えませんでしたか?
自分はもう、森に愛されてはいけないと、思いませんでしたか?」
「……それ、は、考えた…、のかな…」
曖昧に見上げる僕に、ヘルバは断言した。
「それが、無意識にあなたの耳を塞いだのですよ。」
……………
そんなことって、ある?
「森は、あなたのことを、怒ってなんかいません。
今も、あなたに、エエルを送り続けています。
むしろ、あなたがそれを拒むなら、そのことこそ、森は悲しく感じるでしょう。
降り注がれる優しさを、遠慮なく受け取ってくれることを、森は望むでしょう。」
………
よく、分かんない。
………
だけど、……そっか。
そうなのかも。
僕を見つめるヘルバの瞳は、深く優しい色になった。
「焦ることはありません。
歌、を聞こうとしなくてもいいんです。
今、あなたには、何の音が聞こえていますか?」
「………ヘルバの声?」
多分、それは違うんだろうなって思ったけど、とりあえず、それしか聞こえなかったから。
正直に言ったら、ヘルバは、あはは、と笑い出した。
「それももっともですね。
わたくしも、あなたに語りかけるもののひとりに違いありませんから。
わたくしのエエルはあなたに届いているのですね。」
???
うん?
じゃあ、これも、間違って、は、いなかった、のか?
「他に聞こえる音はありませんか?
歌、を意識しなくてもいいんです。
音、を聞いてください。」
音、かあ…
僕はもう一度耳をすませた。
さやさやさや…
これはヘルバの木の葉擦れの音だ。
こういうこと、なのかな?
僕はヘルバの木に耳をつけた。
そうして、耳をすませてみた。




