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僕の笛が正しく石の街の歌を再現したとき。
それは突然、起こった。
夜に沈む街並みを覆い尽くすような圧倒的な力。
ヘルバの木を中心に、それは眩い光をばら撒いて、辺りは一瞬、昼間のように明るくなった。
それから、街全体を、優しい力が覆った。
優しい力。
それ以外に表現を思い付かない。
だけど、それは、まったくその通りだった。
この世界のありとあらゆるものに。
そこに存在している、あるいは、存在していないすべてのものに。
ありのまま、そのまま、そこに、ある、ことを認める光。
善悪の区切りもなく。正邪の境もない。
怒りも憎しみも。喜びも悲しみも。
ただ、そこにあっていいんだ、と。
これほどに大きな、力、を感じたのは初めてだった。
森の慈しみの深さは、とてもよく知っていたけれど。
それとはまた違う、けれど、これもまた、計り知れないほど大きな慈しみだった。
ただただ優しくて。
なにかを必死に訴え続けなくても。
ただただ、それは、限りなく降り注ぐように与え続けられるもの。
世界樹、という言葉をふいに思い出した。
この世界は大きな一本の木の上に存在していて、世界樹は自らの上にあるその世界を、無償の愛に包んでいる。
ヘルバの木は、そんな木だった。
本当は、うんとうんと大きくて、その根は、世界を支えているんだ。
木の根の吸い上げる水は、泉となって湧き上がり、世界を循環して癒していく。
その水源は、すべての命の故郷だった。
石の街は、ヘルバの木を護り、そうして、その営みに蓋をしていた。
命の恵みを与え続ける世界樹の周りに人々は集い、街を築いた。
ありとあらゆるものが、弱った世界樹を護ろうと、力を尽くしていた。
けれど、それは、ときとして益となり、また、ときとして害となっていた。
怒りは尖った破片となって突き刺さり、悲しみは不協和音の歌になる。
けれど、世界はそのすべてをも内側に包み込んでいく。
怒りもエエルだった。悲しみもまた、エエルだった。
正邪も善悪もそこにはなく、すべてそれは、エエルになっていた。
計り知れない大きな力は世界を覆い、けれど、よく見ると、ところどころ綻びかけていた。
エエルが足りないんだ。
エエルとエエルの間に、喰い合いが起きている。
喰われて消滅したエエルは、もう、そこに、なにもない、になってしまう。
世界樹は、その綻びにむけて、エエルを送り続けるけれど。
繕っても繕っても、新しい綻びが現れていた。
世界樹は弱っていた。
長い長い時を経て、疲れていた。
石の街の歌は、その世界樹に、力を送った。
今、世界樹は息を吹き返し、世界を覆う慈しみの綻びを、せっせと繕い続けている。
僕は、力一杯、歌を吹き続けた。
この僕の笛が、少しでも役に立つなら、この僕の息の尽きるまで、笛を吹こうと思った。
けれども。
世界は僕の思うより、ずっと大きかった。
世界樹の必要な力は、僕なんかにどうこうできるレベルじゃなかった。
悔しい。
悲しい。
辛い。
その思いがまた、僕の笛の音に彩りを付け加えたけれど。
やっぱりそれじゃ、全然、足りなかった。
どのくらいそうしていたか分からない。
ほんの少しの間だったような気もするし。
ものすごく長い時間だったような気もする。
ただただ、懸命に息の続く限り吹き続けたけれど。
やがて、僕の口はからからに乾き、指先は強張って、正確に穴を抑えられなくなった。
だけど、僕は、力を振り絞って、吹き続けた。
命を吹き込むつもりで、息を使った。
それでも、次第に、僕の歌は、調子を外して、途切れ途切れになっていった。
…悲しい…
そのときだった。
僕のなかに、なにか、あたたかなものが流れ込んできた。
優しくて。どこまでも優しくて。限りなく優しい。
息を振り絞る僕に、それはそっと寄り添い、痛む喉をすっと癒してくれた。
今ここでこの心地よさに身を委ねてしまえば、全ての苦しみは、僕から去るに違いない。
だけど、僕は、そうしたくなかった。
だから、必死に抵抗した。
けれども、その優しさは、とうとう、僕の抵抗なんか押し退けて、僕のなかを満たしていった。
有難う。
心地よい声が耳元でそう囁いた気がして。
僕は、ゆっくりと、意識を手放した。




