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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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それから僕らは交代でヘルバの看病をした。


アルテミシアの薬が効いたらしくて、その後のヘルバは少しずつ元気を取り戻していった。

ゆっくりなら話しもできるようになったし、少しの間なら、寝台の上に起き上がれるようにもなった。


だけど、自分で歩くのは難しかったし、年老いてしまったからだは、元には戻らなかった。


でも僕は、季節があとひとつかふたつ過ぎたら、きっと、元通りのヘルバに戻ると信じて疑わなかった。


ヘルバの身の回りの世話を献身的にこなすのはピサンリだった。

食事や着替えは言うまでもない。

あの小さいからだのどこにそんな力があるのか、ヘルバのからだを抱えて二階から下ろしたり、具合のいいときには、外のベンチに連れだしたりもしていた。


ふたりを見ていると、まるで祖父と孫のようだった。

実際、ピサンリにとっては、ヘルバは家族みたいなものらしかった。


アルテミシアはヘルバの体調に合わせて、毎日、薬を調合していた。

街の市には珍しい薬草を売る店もあって、そこへ通いつめては、ヘルバのからだに少しでもよいものを、と改良を続けていた。


ルクスは、家の中でヘルバが暮らしやすいように、家具の配置を変えたり、足に車のついた椅子を作ったりしていた。

次々といろんなアイデアを思い付くルクスには、つくづく感心した。


僕はと言えば、相変わらず、あまり役には立たなかったんだけど…

よくヘルバの傍にいて、一緒に話しをしていた。


みんな、いろいろとやることも多くて、だけど、ヘルバをひとりきりにはしたくなくて、だから、僕が話し相手をしていると助かる、って言ってもらったけど。

正直、一番役立たずだった、って自覚はある。


体調を崩してから、ヘルバは、二階の寝台に横になっていることが多かった。

ここには唯一、外の見える窓があって、そこから外を眺めているのが、ヘルバのお気に入りの過ごし方だった。

ぼんやりと外を眺めるヘルバの傍にいて、僕も、一日中、一緒に外を眺めていることもあった。

そんなときは、ヘルバも僕も何も話さなくても、何故だか居心地はよかった。


ヘルバの傍にいると、いつもあの、深く優しい瞳で見つめられているときのような、不思議な安心を感じていた。

温かくて、優しくて。少し寂しいけど、やっぱり温かくて。


ときどき思い出したように、ヘルバは僕に話しかけた。

そんなときは、僕も喜んでヘルバと話しをした。


ヘルバの話しは、長老の昔話のようなときもあった。

滅びかけた世界が、力を取り戻していった頃の話しもあった。

そうなる前の、豊かだった世界の話しもあった。

そのどれも、僕にとっては、どこか遠い世界の物語のようだった。

だけど、話し上手なヘルバの昔話は、聞いていても少しも退屈じゃなくて、楽しかった。


そう。ヘルバの傍にいたその時間。僕は、とっても楽しかったんだ。


エエルの話しもした。たくさんたくさんした。


僕の見たあの黒い霧は、多分、エエルだろうと、ヘルバは言った。

やっぱりそうか、って僕は思った。

だけど、エエルが目に見えることは、普通はないのだともヘルバは言った。

ヘルバにも、エエルは目には見えないらしい。


ヘルバはエエルを風のように感じるそうだ。

温かい風、冷たい風、爽やかな風、熱い風…

乾いた風、湿った風、匂いのする風…

森に吹く風、大地を渡る風、遠い遠いところから吹いてくる風…


ヘルバはいろんな風の話しをしてくれた。

それから、どんなときに、その風を感じたのかも。


その感覚はちょっと分かるなってときも、へえ、そんなの知らなかった、ってときもあった。

だけど、たくさん話していると、なんとなく、エエルって、こんな感じ?って分かってくるような気がした。


もっと早く、ヘルバとは、こんな話しをすべきだったのかもしれない。


だけど、今だって、きっと遅くないはず。


僕らは話しを続けた。

ときには、もうとっくに眠る時刻を過ぎているのに、夢中になって話していて、ピサンリに叱られることもあった。


そんなとき、ヘルバは、ふふ、とちょっと笑って、優しい目をしてピサンリを見つめる。

僕はそのヘルバの優しい目が大好きだった。

多分、ピサンリだって、その優しい目は好きだったんだと思う。

そうして見つめられたら、どんなに怒ってたって、ふふっ、ってつられて笑っていたから。


あのとき、どうして僕が謝ったのか、尋ねられたこともあった。

あの広場で僕は秘術らしきものを使ったことをヘルバに告白した。

ヘルバは僕の話しをじっくり聞いて、それはそれは、と感心していた。

多分、あれは、僕が、秘術、というものを意識して、初めて成功させた体験だった。


だけど、そのせいで、この辺りのエエルを使い果たしたから、ヘルバが病気になったんじゃないか、って言ったら、ヘルバは目を丸くしてから、声を立てて笑いだした。

そんなに笑うことないじゃないかって思ったんだけど、なんだかあんまり楽しそうに笑うから、そのうちに僕もつられて笑ってしまった。


「だって、本当に、ヘルバはしぼんじゃったみたいに見えたんだもの。」


「しぼんだ、はあんまりな言いよう。」


ヘルバはますます笑ってから、いいえ、と首を振った。


「おそらく、あなたの秘術はわたくしには関係ありませんよ。

 多分、それは、そこにあった、黒い霧、その場のエエルを消費して発動したと思われます。」


……そうなの?


「人も生きるためにはエエルが必要なんでしょう?

 だから、無駄遣いは誰かのエエルを減らすんじゃないかな、って。」


「確かに。わたくしも生きているからには、エエルを消費しているのに違いはありません。

 ただ、今はまだ、生き物の持つエエルを奪い去るほどには、エエルの枯渇は起きていませんよ。」


しかし、とヘルバは続けた。


「このままエエルの欠乏が続けば、いずれ、生き物からエエルが奪われる、という事態になるかもしれません。

 実際に、前回の崩壊のときには、エエルを奪われたものもあったのです。」


僕はぶるりとからだを震わせた。

だけど、聞かずにいられなかった。


「エエルを奪われると生き物はどうなるの?」


「存続を失います。」


存続を失う、ってのは、どういうことなんだろう。

首を傾げた僕に、ヘルバは淡々と続けた。


「跡形もなく、消えてなくなります。」


「跡形もなく?」


「命はもちろん、その命の抜け殻すら、残りません。」


ヘルバの言い方は淡々としていたけれど、それはとても恐ろしい事実だった。


「だから、なんとかして、この世界に、エエルを増やさないといけないのですよ。」


だけど、どうすればいいっていうんだろう。

ヘルバは今、その研究を続けることもできない。


焦って不安になる僕に、ヘルバは、ゆっくりと微笑んだ。


「大丈夫。

 わたくしもまだ、働けます。

 大丈夫。

 心配はいりません。」


ヘルバにもうこれ以上、無理をさせたくない。

そう思うのに、ヘルバが何とかしてくれると思うと、すごくほっとする。

そんな自分じゃダメだと思うけど。

やっぱり、ヘルバに助けてほしい。


ヘルバの笑顔を見ながら、僕はそんなことを考えていた。


昔昔大昔。この世界にはエエルが満ちていた。

だけど、人はそのエエルを使い果たして、世界にはエエルが足りなくなった。

この世界の万物はエエルを生み出す能力がある。

だけど、この世界に存続するためには、そのエエルを消費しないといけない。

エエルの足りなくなった世界は、存続する力を失い、崩壊していく。

崩壊を止めるためには、たくさんのエエルが必要なんだ。






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