149
その日は疲れ切っていて、だから、僕は、ヘルバの木には寄らずに、ピサンリの家に真っ直ぐ帰った。
もうすっかり慣れた居心地のいいベットに入ったら、そのままぐっすり眠ってしまって、そうして、夕方になるまで、目を覚まさなかった。
目を覚ましたときには、もう辺りは少し暗くなりかかっていて、僕は慌てて、ヘルバの家にむかった。
ピサンリは、ヘルバの家に行っているのか、姿は見えなかった。
お腹がぺこぺこだけど、ヘルバの家に行けば、なにか食べさせてもらえるだろうって思ってた。
ピサンリは、いつも、みんなのご飯を用意してくれていたから。
昼食時は完全に逃してしまって、夕飯にはまだ少し早いけれど、午後のお茶用のお菓子ならあるんじゃないかな。
パウンドケーキかなにかあるといいなって、呑気にそんなことを考えていた。
木の家に入った僕は、なんだか、いつもと違う雰囲気を感じ取った。
入ってすぐのところの居間には、いつもなら必ず誰かいて、大テーブルに図面を広げたり、道具を並べて何かしていたんだけど、今日は誰もいなかった。
下かな?
ピサンリなら、圧倒的に厨房にいる確率が高い。
僕は、ピサンリ~、お腹すいたよぉ~、などと呑気なことを言いながら、階段を下りていった。
だけど、そこにも、誰もいなかった。
ちょろちょろと泉の音だけが、妙に響く。
おかしい。
家に入ってすぐに感じた違和感が、僕のなかで膨れ上がって、もっとしっかりした形を取った。
だけど、不安の正体にまでは、まだ至っていなかった。
ただ、なんとなく、漠然とした不安を感じながら、僕は仲間たちを探して、階段を上った。
誰でもいい、誰かいれば、きっと安心する。
そんなことを思いながら、ゆっくりと階段を上っていく。
元々ヘルバの寝室だったこの部屋は、今はすっかりルクスに占領されていた。
小さな、けど、寝心地のいい寝台がひとつと、あとは、森みたいに書棚がたくさんある素敵な部屋だ。
森の木みたいに立っている書棚のせいで、階段を上っても、すぐに部屋のなかは見通せない。
普段は、それがまた、居心地のいい理由にもなってたんだけど。
今は、ぐるぐると探さないといけないのが、ちょっと面倒だった。
二階に上がった僕は、そこに人の気配があるのを感じた。
それも、ひとりじゃない、複数だと思う。
だけど、そこはしんとしていて、誰も話しをしていなかった。
書棚の森を抜けて、ようやく寝台に辿り着いた僕は、そこに全員が集まっているのを見つけた。
僕は心臓がぎゅっと掴まれたみたいな心地がした。
こんな場所に全員集まってるなんて、きっと、良い事じゃない気がした。
恐る恐る声をかけようとしたら、アルテミシアがこっちを振り返った。
先から僕に気づいていたのか、驚いた顔もせずに、ただ、やあ、と言った。
その挨拶が妙に場違いな感じだと思ったのに、僕も、同じように、やあ、と返した。
「お腹、すいておるかの?」
寝台の枕元に膝をついて屈みこむようにしていたピサンリは、ゆっくりとからだを起こして、僕のほうを振り返った。
その隙間から、寝台に横になっている人の姿が見えた。
「……、誰?」
思わずそう言った僕に、その場の全員が、小さな笑い声を漏らした。
僕はちょっと憮然とした。
こんな人、知らない。
みんなは知ってるのかもしれないけど、僕は寝てたんだから、知らなくてもしょうがないじゃないか。
真っ白の長い髪は、まるで寝具みたいにからだを覆い尽くしている。
髪に埋まったからだは、細く痩せていて、ちらっと見えた手は、骨の形がはっきり分かるくらいだ。
顔には、深い皺が年輪みたいに刻まれていて、目も鼻も口も、皺に埋もれている。
とにかく、すごいお年寄りだって、ことだけ、見て分かった。
お年寄りの小さな目がきらりと光って、僕のほうを見た。
「…おどろ、か、せて、しまって…もうしわけ…ありません…」
寝台に横たわった人は、途切れ途切れにそう言った。
その声はひどくかすれていて、ひゅうひゅうと息を吸う音が間にはさまっていた。
それだけ言うのがやっとのように、その人は、苦しそうに咳き込んだ。
慌ててルクスがその人の背中をさすった。
ピサンリも、枕元の水差しから水を飲ませた。
なんだか、酷く具合が悪そうなのは、見ているだけで分かった。
アルテミシアの煎じた薬が、小さなカップに入れてあるのが見えた。
その横には、粉に挽いた薬もあった。
旅の重病人が、たまたま家の前で倒れたか何かして、みんなで介抱している。
ってとこかな?
「…そうだ、ヘルバは?
ヘルバはどこ行ったの?」
この場にいないもうひとりに気づいて、僕はみんなに尋ねた。
すると、みんな、また笑った。
今度の笑いは、さっきよりももう少し大きかった。
「ここに、おりますよ?」
寝台のお年寄りがそう言う前に、僕は、はっと気づいていた。
そう、みんなが、もう一度笑ったときに。
僕は寝台に駆け寄ってヘルバを見た。
ヘルバは皺に埋もれそうな小さな目を見開いて、僕のほうを見ていた。
口を開きかけたヘルバの肩を、僕は押しとどめた。
何か話したら、またさっきのように咳き込んでしまう。
今は、こんな状況のヘルバと、急いで話さないといけないことなんて、何もない気がした。
服と上掛けとあったはずなのに、とっさに抑えた指先に、ヘルバの肩の骨の感触が伝わってきた。
その感覚に、ぞくりとした。
そのまま僕は、崩れ落ちるように、しゃがみこんだ。
「…ごめん…ごめん…ヘルバ…」
僕はヘルバの上掛けに取りすがって泣いた。
ヘルバの骨ばった手が、ゆっくりと僕の髪を撫でてくれるのを感じた。
「…なにを、あやまる…」
ヘルバに話させたくない!
そう強く思った僕は、はっと立ち上ると、正面からヘルバの目を見つめた。
ぽたぽたと涙がヘルバの上に落ちた。
僕がじっと見据えると、ヘルバは開きかけた口を閉じて、ただ、にっこりと微笑んだ。
だから僕は、もうこれ以上ヘルバに話しをさせないために、急いで先に言った。
「僕のせいだよね?
僕が秘術なんか使ったから。
エエルを無駄遣いしたから。
ヘルバは、そうなっちゃったんだよね?」
こっちをじっと見ていたヘルバの目に、盛大な?が浮かんだ。
きょとん、と首を傾げる仕草は、まさに、ヘルバ、そのものだった。
それがあまりにも、そのまんまだったから、僕はまた辛くなって、涙やら鼻水やらぼとぼとと落ちてきた。
だけど、それに構わず、僕は続けた。
「どうしたらヘルバは治る?
僕、なんでもやる。」
僕を見つめるヘルバの目は、すごく優しい。
だけど、それがもっと深みを帯びて、優しく、優しく、なった。
僕はたまらなくなって、ヘルバの上掛けに顔を埋めて泣いた。
誰も、何も、言わなかった。
だけど、温かい手がいくつも、僕の髪や背中を撫でていた。




