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ヘルバの薬はほんのちょびっとだった。
だから、まくことができたのも、ほんの足元の少しだけ。
だけど、足元から湧き出した黒枯虫は、ものすごい迫力で、もくもくと広場中に拡がっていった。
あっという間に、僕の視界は黒枯虫に埋め尽くされた。
いきなり、まるで、闇のなかに突き落とされたように、辺りが真っ暗になった。
この闇の全てが、虫だと思うとぞっとする。
もしかしたら、呼吸で吸い込んでしまうんじゃないかって思い付いて、慌てて息を止めて口の中を探った。
幸い、口の中に特段、普段と違った感じはなかった。
変な味も臭いも、舌触りも、ない。
とりあえず、恐る恐る呼吸は再開する。
息をしていないと、ものも考えられないし、動くこともできないから。
多分、だけど、ピサンリには、この黒枯虫は見えてないんだろう。
今僕にはピサンリの姿は見えないけれど、おそらく、ピサンリには僕は見えていて、そうして、きょろきょろとし始めた僕を不審に思ってるかもしれない。
試しに、ピサンリのいた方へ手を伸ばしたら、誰かがぎゅっと手を握ってくれた。
この手触りは間違いない、ピサンリの手だ。
ピサンリに手をつないでもらって、ますます安心した僕は、落ち着いて、考えてみた。
もしかしたら、黒枯虫、には、実体、というものはないのかもしれない。
霧だって、ずっとその中にいたら、じっとりと濡れてしまうけど。
黒枯虫は、霧以上に、なにもない、んだ。
虫、というのも、本当は違うのかもしれない。
白枯虫のことがあって、なんとなく、虫、と呼んでいたけど。
もし、この黒枯虫のほうを先に見ていたら、多分、虫、じゃなくて、黒い霧、って呼んでたと思う。
どんなに目を凝らしても、虫、の姿は見えないから。
いや、濡れたりはしないから、正確には、霧、でもないんだけど。
僕の知っているもののなかでは、一番、それが、近い感じなんだよね。
もちろん、霧ってのは、白いもので、黒い霧なんて、実際には見たことないけどさ。
黒い霧に閉じ込められるのは初めてじゃなかったから、割と落ち着いていたかもしれない。
そのうちに、ぶぶぶぶぶ、という音と共に霧を晴らす祓い虫が現れた。
もちろん、僕がぼんやりしている間に、ブブが働いてくれてたからだ。
祓い虫は、あっという間に、辺りの霧を食べつくしていく。
祓い虫のほうは、ちゃんと、虫、の姿に見える。
もっとも、そんなに小さいものじゃないから、間違って吸い込むんじゃないかって心配はいらない。
お腹いっぱいに食べた祓い虫は、ぼとっ、ぼとっ、って音を立てて落ちるんだけど。
その姿もちゃんと目に見える。
もっとも、霧は低いところほど濃くて、高くなるほど薄い。
地面に落ちた祓い虫は、まだ濃い霧に隠されていて、どうなっているのか見えない。
だけど、しゃがんで確かめるのは、今日はやめとく。
前に、そうしようとして、踊ってる人にぶつかられたことあったから。
多分、だけど。
触って確かめても、祓い虫は、分からないんじゃないかな。
だって、明るくなってから見ても、そこには、なんにもない、んだから。
みるみる視界が晴れていく。
案外近くにいたピサンリは、僕の手をぎゅっと握ったまま、反対の手を僕の背中に添えるようにして、心配そうにこっちを見上げていた。
「大丈夫かの?賢者様?」
「あ。…ごめん…
今、僕、どうなってた?」
「ぼんやりしなすって。
何度声をかけても、聞こえておらんようじゃった。」
なるほど。
あの黒い霧に包まれている間って、そうなってるんだ。
「大丈夫だよ。
心配させてごめんね。」
僕は精一杯、ピサンリに笑ってみせた。
そうしている間にも、通りかかる人たちは、ときどき僕にぶつかりそうになっている。
どうやら、僕がぼんやりしている間、ピサンリはずっと僕が突き飛ばされないように、ずっと守っていてくれたらしかった。
「とりあえず、人のいないところへ行こう。」
足元にはまだ破片がたくさん転がっている。
転ばないように気を付けて、そろりそろりと僕らは広場の端っこに避難した。
歩きながら、そっと、靴の先っぽで破片をどかしてみたけど。
やっぱり、そこには、破片以外のものは、何もなかった。
だけど、僕の予想だと、あとは、ここに朝日が差したら。
もしかしたら、起こるかもしれない。
いつも、あれが起こるのは、朝になってからだった。
端っこに避難した僕は、ピサンリに今起きたことを説明した。
うまく話せたかどうか分からないけど、ピサンリは目を丸くしたまま、じっと聞いていてくれた。
「それは、賢者様の、秘術なのかのう?」
「ヘルバはそう言うんだ。」
「つまり、賢者様は、紋章を描くことなしに、秘術を使える方じゃ、と。」
ピサンリの視線が眩しくて、僕は目を逸らせながら、うーんと首を傾げた。
「秘術を使う人って、やっぱり、なんか、特別な人だよね?
族長とか、さ。
僕は、自分がそんな特別だとは、どうしても思えないんだけど。
紋章だって、少しも覚えられないし。
ルクスやアルテミシアのほうが、よっぽど、特別な人、なんだと思う。」
「大昔、人は、誰もがみな、秘術を使うていたそうじゃ。
そのころの人は、紋章も使わんかった。
じいさまも、紋章なしに、秘術を使うておる。
秘術を使うのは、おそらく、特別な人、ではないのじゃよ。」
「だったら、僕にも、できるのかなあ…」
先祖返り?とかいうのだとしたら、あり得なくもない?
「とりあえず、これから、それを確かめるよ。」
ゆっくりと遠くから夜の闇は薄まり始めている。
本当に、それ、は起きるのか。
この目で確かめなくちゃ。
僕は身を乗りだして、じっとそれを見ていた。




