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昔昔大昔。
この世界の人々はみんな秘術を使うことができた。
誰でも使えたのだから、それは、秘術、なんて呼ばれていなかった。
走ったり、歌ったり、絵を描いたり。
そういうことと同じように、みんな使える力だった。
ただ、走るのに得意不得意があるように。
速く走るのの得意な人、長く走るのの得意な人、みたいなのがあるように。
秘術にだって得意不得意はあった。
そしてどんなこともその道を究めようとすると大変なように。
秘術の道も究めるのは至難の技だった。
秘術を発動させるのは、世界に満ちるエエルの力だった。
昔の人は、エエルの流れやその意思を感じ取る力を持っていたらしい。
いや、今の人にだって、潜在的にはあるらしいんだけど。
ただ、僕らはもうずっと、その力を使わないから、力の使い方も忘れてしまっているそうだ。
どうしてみんな秘術を使わなくなったのか。
それは、世界に満ちていたエエルが、極端に少なくなってしまったからだった。
昔々は、世界にエエルは満ちていた。
だけど、それは少しずつ消費されて、そして足りなくなっていった。
この世界に存在する万物には、エエルを生み出す力がある。
そして、この世界の生きとし生けるものは、そのエエルを使って生きている。
ただ生きてるだけなら、世界の生み出すエエルの量は、使う量を上回っているんだって。
だけど、人は、秘術で、エエルを大量に消費した。
そうして、少しずつ、エエルは足りなくなっていった。
この世界に生きるものは、エエルがないと生きていけないから。
だから、一度、世界は崩壊しかけた。
だけど、そのときはなんとか持ち直したんだ。
どうやって持ち直したのかは、ヘルバも知らないらしい。
ただ、平原の民の英雄が、何かをした、ということだけ、分かっていた。
エエルが少なくなってから、秘術は発動しなくなっていった。
だから、人々は少しずつ、秘術を使わなくなっていた。
そして、秘術を使わなくても暮らしていけることを、実感として分かっていった。
秘術は少しずつ忘れられ、あるいは封印されていった。
秘術を使わなくても、世界は機能した。
多少の不便は、世界を崩壊させるよりはマシだった。
確かに僕もヘルバの秘術とか見せてもらったから、秘術ってのは便利なものだなって思う。
だけど、ないと困る、とまでは思ってない。
赤い炎は、森の浄化に必要だと思ってたけど。
祓い虫の力を借りれば、その秘術も使わなくてもいけるかなって思う。
ヘルバは僕にも秘術を使うことができるって言ったけど。
僕は、取り立てて使いたいとも思わないかな。
癒しの術を使わなくても、アルテミシアの優秀な薬があるし。
貴重なエエルを無駄遣いするのは、やっぱり、よくない気がする。
ヘルバは、秘術を使うけど、それって、ヘルバ自身が、昔々大昔の人だからなんだって。
昔から染みついた癖は、なかなか抜けないらしい。
だけど、そんな大昔の人は、今はもう、ヘルバくらいしかいないんだ。
「わたくしと同じくらいに生まれた森の民は、もうみんな、彼の地へ行ってしまいました。
彼の地、アマンは、エエルに満ち溢れていて、元々、この世界の生き物は、彼の地からこちらへ渡ってきたものだそうです。
彼の地へ往くことは、故郷へ還るのと同じ。
だから、森の民は、いずれ、みな、彼の地へと出立するのです。」
その話しは、族長からも聞いたことがある。
いつかは、みんな彼の地へと渡るのが、僕ら森の民の悲願なんだって。
「けれど、わたくしには、まだ、この地に残り、成し遂げたいことがあるのです。
だから、いまだ、出立には至っておりません。」
ヘルバはなにか強い決心のある目をして言った。
僕はちょっとその目に興味をひかれた。
「成し遂げたいこと?
差支えなければ、教えてもらってもいい?」
「ええ。
秘密にしているわけでもありませんから。
わたくしは、この世界のエエルを、どうにかして生み出す方法を探しているのです。」
それは、すごい。
いつも穏やかににっこり微笑んでいるヘルバなのに。
それを言ったときは、滅多に見ないくらい、きっぱりと、堂々としていた。
「今また世界が崩壊しかかっているのは、世界からエエルが少なくなっているからです。
何故、世界からエエルが失われているのか、その理由は分かりません。
理由が分かれば、あるいは、大昔の人々が秘術を封印したように、対処法もあるかもしれない。
けれど、わたくしは、その理由を探すよりも、いっそエエルの総量を増やしてしまおうと。
そう考えたのですよ。」
なるほど。
足りないなら節約するより、作ってしまえばいい、ってことか。
「だけど、エエルって、作れるもんなの?」
期待を込めて見つめたら、ヘルバはちょっと勢いを失い、ため息を吐いて首を振った。
「残念ながら、いまだ、その答えは見つかっていません。
ただ、今のこの世界に、エエルの流れや意思を感知する力を持つ者は、ほとんどいなくなってしまいました。
わたくしには辛うじてまだ、その力がありますから。」
それって、ヘルバは、昔々大昔の人だからだ。
秘術を使うのは当たり前だった時代の。
「エエルの感知、か…」
ヘルバはまたじっと僕の顔を見た。
「あなたはおそらく無意識にそれを成していると思われます。」
と言われても。
僕には、なんのことか、やっぱり分からない。
ヘルバは僕のほうにむきなおると、改めたように言った。
「わたくしの研究に、力を貸していただけませんか?
あなたのお力があれば、きっと、今滞っていることも、先へ進むと思うのです。」
真剣に見つめられて、僕は焦った。
「いやいやいや。
無理だよ、僕なんて。
そんな研究とか、難しいことは。
ルクスとかアルテミシアとか、なら役に立つだろうけど。
僕は、みんなの言っていることすら、分からないんだもの。」
ヘルバは何か探しものをするみたいに、僕の目の中をじっと見つめた。
「いいえ。
あなたには、あなたにしかない能力があります。」
僕はもっと焦った。
そうして、どうやって断ろうとそればっかり頭のなかぐるぐるした。
「無意識に秘術を使ってた、ってこと?
でも、それなら、ルクスもアルテミシアも、ちゃんと意識して秘術を使ってるよね?
そっちのほうが、百倍すごいって、思うんだけど…」
「しかし、あのおふたりには、エエルの感知はできません。
あなたには、それができるのですから。」
「…、できてる自覚、僕には、ないんだよね…」
これがエエルだ!って分かってたら、いくらでも手伝いたいって思うけど。
「申し訳ないけど、やっぱり、僕には無理だって思う。」
ヘルバは諦めきれないのか、僕をじっと見つめた。
僕は気まずくて、ヘルバから無理やり目を逸らせた。
ヘルバの小さなため息だけ聞こえた。
「そうすれば、世界を救えると、思うのですけれど。」
世界を救う、か。
そんな大それたこと、やっぱり、僕の出番じゃないよ。
「世界を救うのは、ルクスとアルテミシアだ。
それと、ピサンリ。それから、ヘルバ。」
僕はその英雄のチームには、入れない。残念だけど。
「ごめんね?」
目を合わせずに僕は小さな声で謝った。




