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…ん…ま……んじゃ……けんじゃ………賢者様!
はっと気づくと、ピサンリは僕に必死に声をかけていた。
「どうされた、賢者様!」
僕の目を覗き込むようにしてピサンリが尋ねる。
僕は、ふぅ、と息を一つ吐いた。
「ごめん。
なんか、黒い霧に囲まれてて…」
なんだかしばらく別世界にいたような気分だった。
時間はそれほど経っていなかったのかもしれない。
辺りの人たちは狂ったように踊っていて、ずっとむこうには踊るルクスも見えた。
さっきから、前後左右からひっきりなしに人にぶつかられていた。
こんなところにぼうっと突っ立っていたら、踊りの邪魔になるんだ。
踊っている人たちは、踊りに夢中で、僕らのことには注意も払っていなかった。
多分、もう最初からずっと、そうだったんだろう。
僕は、見つからずに済んだことに、ほっとした。
ピサンリは僕の手を取ると、ここから連れ出そうとした。
ピサンリに手首を握られた瞬間、僕は顔をしかめた。
「っ…」
ピサンリは僕の掌を見て痛そうな顔をした。
「転んで手をついたときに切ったのじゃろう。
あちらへ行って、手当をしよう。」
僕はうなずいて、素直にピサンリについていった。
賑やかな踊りの輪を抜けて、広場の隅に行くと、腰掛けるのにちょうどよさそうな木箱が落ちていた。
ピサンリは木箱を持ち上げたり、何回か叩いて確かめてから、僕に座るように言った。
こんなときには相手に譲るのが礼儀なんだろうけど、僕は素直に座らせてもらった。
するとピサンリは僕の手を取って、怪我の程度を確かめ始めた。
「…これは、ひどい。
痛むじゃろう?」
ピサンリは顔をしかめて僕を見る。
僕もつられて顔をしかめた。
「うん。かなり。」
「破片が残っておるかもしれん。
少し、我慢してくだされ。」
その宣言に僕はぎくっとしたけど、諦めてお任せするしかなかった。
昨日、アルテミシアに足の手当をしてもらったときのことを思い出した。
「これを。」
ピサンリは背負い袋から小さな箱を取り出して僕に手渡した。
箱は振るとからからと音がした。
「痛み止めだそうじゃ。」
箱の蓋を開けると、少し大きめの丸薬が入っていた。
これは、飲み込むのはちょっと骨が折れそうだ。
「口にくわえて、舌の上で溶かすそうじゃ。」
げー…、薬を舌の上で溶かすだって?
丸薬は黒々として、ひどく不味そうだ。
僕は、薬の不味さを我慢するのと、治療の痛みを我慢するの、どっちが楽か天秤にかけた。
「そうひどい味ではないと言うておられた。
さあ、早う。」
急かされて、仕方ない、目を瞑って薬を口に放り込んだ。
「あれ?不味くない。」
いやむしろ、美味しい。
僕は薬をころころと舌の上に転がした。
いや、これ、本当、美味しい。
にこにこと薬を舐めている僕に、ピサンリはちょっと笑ってから、掌の手当にとりかかった。
ピサンリは目を皿のようにして僕の掌を見ていたけど、どうやら、破片は残っていなかったみたいだ。
僕は痛いのを覚悟してどきどきしていたけど、思ったより楽に済んでほっとした。
これなら、美味しい薬をもらっただけ、ラッキーだったかな。
破片がないのを確かめると、ピサンリはぺたぺたと膏薬を塗ってから、清潔な布でぐるぐる巻きにした。
両手ともぐるぐる巻きにされて、僕はちょっと不便だなって思った。
「喉は渇いておらぬか?」
「うーん、ちょっと、渇いた、かな。」
そう答えると、ピサンリは背負い袋から水筒を取り出した。
僕は目を丸くした。
「…そんなものまで、持ってきたんだ。」
「このピサンリ、準備はいつも万端じゃ。」
まったくだ。
だけど、水筒を受け取ろうとして、僕はぐるぐる巻きにされた両手に途方に暮れた。
これじゃあ、水筒を持てない。
それに気づいたピサンリは、盛大な舌打ちをした。
「しまった。葦の茎を持ってくるんじゃった。
このピサンリ、一生の不覚。」
いや、それほどのことじゃないと思うけどね?
それに、葦の茎なんて、普通、持ってこないでしょう。
ピサンリが悔しそうにしているのがおかしくて、僕はちょっと笑ってしまった。
すると、僕が笑ってるのに気づいたピサンリも、笑い出した。
「仕方ない。
これで飲んでくだされ。」
ピサンリは水筒を僕の口のところに近づけてくれた。
僕はピサンリの手を借りて、水を飲ませてもらった。
そんなに喉が渇いている自覚はなかったんだけど、飲み始めると止まらなかった。
水は僕のからだに沁み込んで、からだ全体が浄められる気がした。
「美味しい。これって、木の家の泉の水?」
水を汲む暇なんてなかったはずだ。
だけど、それは、普通の井戸の水じゃなくて、あの泉から直接汲んだ水だった。
「そうじゃよ。
昨日、帰るときに汲んできたんじゃ。」
流石、ピサンリ。
準備は完璧だ。
「この水には癒しの効果があると、じいさまもいつも言っておったからのう。
どうせなら、井戸水よりよかろうと思うての。
どうじゃ?少しは具合もようなったかのう?」
「うん。有難う。」
本当にピサンリって、完璧だ。
転んだとき膝もついてたけど、そっちは服のおかげで怪我はしていなかった。
ピサンリは掌の手当をしてから、そっちも丁寧に確かめてくれた。
その間、僕は踊る人たちのほうをずっと観察していた。
足元にはやっぱり、たくさんの破片やゴミが散乱している。
踊り狂う人たちの足は、さらにそれを踏み荒らしていた。
どこか遠くで、朝を告げる鳥の声がした。
いつの間にか、少しずつ、明るくなり始めていた。




