135
やがて、夜が少しずつ後退して、朝がきた。
あんなにいた人々は、少しずつ姿を消して、いつの間にか誰もいなくなっていた。
本物のお日様の前に、偽物の昼間は、ぼんやりと白くなって、影を潜めていった。
残されていたのは、たくさんのとげとげした破片と、零した食べ物や飲み物の臭いだった。
僕は広場の真ん中で、ぺったりと尻もちをついて、ぼんやりしていた。
ヘルバの秘術の効力はまだあるみたいで、僕のからだは地面からほんの少しだけ浮き上がっていた。
でなければ、こんな破片だらけのところに、座ったりなんかできなかった。
忘れていた痛みが蘇って、足がずきずきする。
ちらっと横目で見たら、皮の靴に血がたくさんついていて、怖くてそれ以上は確かめられなかった。
実際にはぼんやりしていたのは、それほど長い時間でもなかったのだと思う。
人気がなくなったなあ、と思ったのと、ぽんと肩を叩かれたのは、ほぼ同時だったから。
僕は疲れきっていて、動く気力もなかった。
ゆっくりと見上げると、ヘルバが泣きそうな顔をしてこっちを見下ろしていた。
「帰りましょう?」
「…いや、まだ、ブブが…」
言いかけて、ヘルバの視線に気づき、自分の胸を見下ろした。
いつの間に戻っていたんだろう。
そこには、いつものように、ブローチになったブブがとまっていた。
僕はブブの鼻先にそっと手を触れた。
ブブは眠っているのかぴくりとも動かず、けど、確かなその手触りに、僕はようやくほっとした。
ヘルバがさっと腕を振り上げると、僕のからだは、ふいに宙に浮き上がった。
驚く気力ももうなかったけど、このままふわふわと飛んでいるのは目立つなと思った。
「…自分で歩けるよ…」
「その足では、無理ですよ。」
ヘルバはそう言って二本の腕を前に突き出した。
すると僕はそのままヘルバに横抱きにされている風になった。
「…恥ずかしいんだけど。」
「朝早いから、誰も見てませんよ。」
「…重たくは、ない、のかな?」
「秘術で浮かしてますから。」
だよね?
「ずっと、秘術を使ってくれてたの?」
「ええ。」
「やっぱりそうか。
おかげで、助かったんだ。
有難う。
僕、あんなふうに踊ったのって、初めてだ。」
ヘルバはほんのちょっとかすかに笑って頷いた。
「けど、もうそろそろ限界です。
だから、早く帰りましょう。」
それは大変だ。
「…けど、エエルの石が…」
昨夜、現れた黒枯虫と祓い虫。
地面には確かに何か落ちる音がしていた。
僕はきょろきょろと辺りの地面を見回した。
けれど、そこには破片と零れた食べ物、それから誰かの忘れ物なのか、靴や何故か服、そういった物の他には何も落ちていなかった。
「残念ながらここにはエエルの石はありません。」
「そうみたいだね。」
それだけ言うと、ヘルバはもう有無を言わせず、僕を抱きかかえて歩き出した。
いや、よく見ると、ヘルバの足もほんの少し宙に浮いていて、足を動かすのに合わせて、すいーすいーっと、前に進むのだった。
「この秘術って、本当に便利だね?」
そう言ったら、ヘルバは少し笑った。
「よかったら、教えて差し上げましょう。
あなたなら、すぐに習得してしまいますよ。」
そう、かな?
ルクスとかアルテミシアとか、結構、紋章を使いこなしてるけど。
僕は、いくら練習しても、できなかったんだよね。
「それは、どうかな…
僕、物覚えもよくないし…器用でもないし…」
「秘術に必要なのは、物覚えでも器用さでもありませんよ。」
そう言ってもらえると、ちょっと安心するけど。
「だったら…、僕にも、できるかな?」
「ええ、きっと。」
ヘルバは笑ってしっかり頷いてくれた。
その笑顔にちょっと油断して、僕は軽く尋ねてしまった。
「…ヘルバってさ、どこかの族長かなにかだったの?」
ヘルバってどう見ても、族長、って雰囲気じゃないんだけどさ。
でも、僕らの郷じゃ、秘術を使うのは族長だけだった。
ただ、もし、族長だったとしたら、一族はどうしたんだろうとか、なんでひとりでこんなに長く平原で暮らしてるの、とか、なんだか聞きにくいこともたくさんあるんだけどさ。
「……どうして?」
ヘルバは少し考えてから、僕の質問に質問で返した。
どうしてそんなことを聞くのか、ってことだよね?
ヘルバの声はひどく固くて、影になって見えなかったけれど、表情も強張っているようだった。
僕は、心底、しまった、って思ってた。
「………いや。べつに。ただ、なんとなく。」
僕はヘルバの顔から視線を逸らせてそう答えた。
ヘルバはその後はもう何も言わなかった。
家に戻るとアルテミシアがひとりだけいた。
「どこへ行ってたんだ?
朝になってもどこにもいなかったから、ルクスとピサンリは君たちを探しに行ったんだ。」
「それは大変だ。
行き違いになっちゃった。
僕、ふたりを探しに行かなくちゃ。」
僕は慌てて行こうとしたんだけど、いきなりアルテミシアに腕をつかまれた。
「ダメだ。
怪我、してるじゃないか。
そっちの手当のほうが先だ。」
アルテミシアは有無を言わせず、僕を抱えて椅子に座らせた。
ヘルバの秘術はもう切れていたはずだったけど、アルテミシアは軽々と僕を抱え上げていた。
「心配はいりません。
お二人のことはわたくしに任せてください。」
ヘルバは僕を安心させるように笑って言ってくれた。
確かに。
この足じゃ、まともに歩けそうもないし、ヘルバだって、もうあの秘術を使うのは限界だって言ってた。
ここはお任せしたほうが、いいかもしれない。
ヘルバがさっと手を振ると、きらきらした蝶がどこからともなく現れて、ひらひら飛んでいた。
蝶にむかってヘルバは手を差し出す。
すると蝶はヘルバの手の甲に、大人しくとまった。
ヘルバは、蝶ののった手を口元に寄せて、軽く、ふっと、息を吹きかけた。
そんなことをしても、蝶は逃げもしないでじっとしていた。
それから、ヘルバは蝶を送り出すように軽く手を振った。
すると蝶はまたひらひらと飛び上がって、そのまま姿を消してしまった。
あれも、何かの秘術?
尋ねたくてうずうずしたけど、なんだか聞きそびれた。
それに、アルテミシアは僕の足の手当を始めていて、正直、僕のほうはそれどころでもなかった。
まず、アルテミシアは、問答無用で、僕の皮の靴をざくざくと切ってしまった。
せっかく、ピサンリに作ってもらったお気に入りだったのに。
だけど、そうしないと、傷ついた僕の足から、靴を脱がせることは不可能だったんだ。
それから、アルテミシアは、僕の足に刺さった破片を、ひとつずつ丁寧に取り除いてくれた。
アルテミシアはひどく気を付けて、それはそれは丁寧にやってくれたんだけど、それでも、僕はときどき悲鳴をあげてしまった。
いつ終わるのか分からないくらい何度も何度も悲鳴をあげて、ようやく破片が取り除かれると、アルテミシアは丁寧に薬を塗って、両足とも布でぐるぐる巻きにした。
そのころちょうど、ルクスとピサンリのふたりが相次いで戻ってきた。
ふたりとも、ちょっと怒って、それから、ほっとしたと言ってくれた。




