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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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ブブは、ちょうど僕らがぎりぎりついていけるかいけないか、くらいの速さで、ちょうど僕らがぎりぎり手の届くか届かないかのところを、ぶぶぶぶぶ、って、飛んでいた。

僕らは何回もブブを捕まえようとしたけど、いつも、ほんの髪の毛一筋くらいの差で、逃げられてしまった。


僕らはブブを追いかけて追いかけて、夜の石の街を走り回った。


この辺りは夜に出歩く人もなくて、街はしんと静まり返っている。

家の中には人もいるだろうけど、分厚い石の壁に阻まれて、中の様子は外には分からない。

窓もぴったりと鎧戸を閉めてあって、光すら漏れていなかった。


「前は、こんな夜は、窓を開けて、月明りを楽しんだものですけどねえ…」


ヘルバは街の家を見て小さく首を傾げた。


「窓をしっかり閉じておかないといけない、と。

 そういう気持ちにさせるようなものが、この街に漂ってきたのでしょうね。」


僕は辺りの風の匂いを嗅いでみた。

取り立てて変な匂いもしない。

耳をすませてみても、変な音も聞こえなかった。


ヘルバの言う、そういう気持ちにさせるもの、は、目にも見えない、匂いもしない、音もさせない、それなのに確実にそこにある。そういうものらしかった。


ヘルバの履いている柔らかな布靴も、僕の履いている皮の靴も、そんなに足音はさせないけれど。

静かな夜の街に、僕らはなるべく音を立てないように気を付けて走った。

静まり返った石の街に、今、不用意な音を立ててはいけないような気がしていた。


いくつか尖った角を曲がって、坂道を上ったり下りたりして。

ブブを見失ったかと思ったら、また、すぐに見つかる。

そういうことを繰り返しながら、僕らは、夜の街を走り続けた。


そうしてとうとう、僕らの辿り着いたのは、新街との間にある壁だった。


分厚くて背の高い壁を、ブブは、あっさりと飛び越えていく。

だけど、僕らにはもちろん、壁を飛び越えられるほどのジャンプ力はない。

壁を抜けるには、門へ回り込むしかないけど、そこからじゃ、門はとても離れていて、そんな回り道をしていたら、確実にブブを見失いそうだった。


どうしよう、と思ったときだった。


「わたくしにつかまってください。」


ヘルバは僕の腕を掴むと、いきなりそう言った。

慌てて言われた通りにするのと、ふわっと僕のからだが浮き上がったのとは、ほとんど同時だった。


「う、うわっ…」


足の下の固い地面の感覚を失くして、僕は途端にバランスを崩した。

その僕のからだを、ヘルバは両肘のところを持って支えてくれた。


「大丈夫。怖くありませんから。

 わたくしにつかまって。」


僕はちょっと恥ずかしいくらい、ぎゅっと、ヘルバにしがみついた。

そうしていないと不安だったんだ。

ヘルバはちょっと笑って、小さい子にするみたいに、僕をぎゅっと抱きかかえてくれた。


「慣れれば、どうということはありませんよ。

 地面を歩くのとそう変わりありません。」


…そんなことは、ないと思うけど…


「これは、秘術?」


「まあ、そんなところです。」


こんなふうに自由に秘術を使う人を、僕は見たことがない。

族長だって、秘術を使うには、祝福の歌を歌ったり、いろいろと儀式をしていたのに。

今のヘルバは、紋章も描いてないし、なにか言葉を唱えるようなこともしなかった。


僕らはふわふわと宙を舞い上がって、あっという間に壁を越えてしまった。

それはまるで、風に舞い上げられる木の葉か何かになったみたいだった。


着地するとき、ちょっと、ふらついたけど、なんとか転ばずに、もう一度地面に立つことができた。

足の下にかっちりした地面があるなんて、なんて安心なんだろう、って思った。


「もう、手を離してもいいですよ?」


ヘルバは、ちょっと笑いながらそう言った。

僕はまだヘルバにぎゅっとしがみついたままだった。

慌てて僕はヘルバから手を離した。


そうだ、ブブだ。


一瞬、忘れかけていたブブを、あちこちきょろきょろして探すと、ぶぶぶぶぶ、という例の羽音が聞こえてきた。


ブブは僕らを待っていてくれたのか、その辺を飛んでいたけれど、僕が気付いた途端に、また、どこかを目指して飛び始めた。


「彼には、なにか、目的があるみたいですね?」


ヘルバは僕にそう囁いた。

僕もそれは感じていた。


いつもブローチみたいにじっと動かないブブだけど。

突然、動き出したことは、これまでにもあった。

そして、それって、いつも、なにか、大事な用のあるときだった。


まさか、白枯虫を見つけた?


だけど、この街の傍を流れる川の水は、ここへ入る前に浄化しておいたはずだ。

井戸水の水源は、ヘルバの木の地下にある泉で、あの水は白枯虫には侵されていなかったと思う。


だけど、ブブが、こんなふうに動き出した、ということは、なにか、不測の事態が起きたことに間違いはないだろう。


胸の中に得体の知れない黒くて重たいものが、じわじわと湧き出してくる。

そうしてそれは少しずつ大きくなっていった。


壁を越えた新街も、ほとんど寝静まっていた。

窓を開けている家もない。

この辺りの家は、石と木材を組み合わせて作ったような家が多かった。

だけど、しん、と静まり返っていて、家の中の物音も聞こえない。


ぶぶぶぶぶ、というブブの羽音だけ聞きながら、僕らは走り続けた。

こんなに走ってヘルバは大丈夫かな、ってちょっと思ったけど、僕よりもっと元気そうで、むしろ僕のほうが、そろそろ走り疲れてきていた。


旅を始めてから、前より少しは体力もついたはずなんだけど。

やっぱり、運動は苦手だ。


だんだんと息も上がり、足ももつれてくる。

自分の心臓の音が、ばくばくとうるさくて、ときどき、ブブの羽音すら聞こえなくなってきた。

額からしたたる汗が目に入って、目もかすむ。

立ち止まりたいけど、今立ち止まってしまったら、二度と走れなくなる気がして、僕はただ必死に足を交互に前に出し続けることにだけ集中した。


すると、遠く遠くに、明るい光が見えてきた。

あれはなんだろう?

あの光を目指して、どうやらブブは飛んでいるみたいだった。


小さな坂を何度も上ったり下りたりして、たくさんの角を曲がって。

僕らは、新街をも走り抜けていった。

あの光はますます近づいてくる。

どうやらそれは、壁のむこう側に見える、新々街の灯りのようだった。


下の壁に遮られている辺りは暗いのに、上のほうだけ、とても明るい。

それは、まるで、宙に浮かぶ光の世界みたいだ。


大勢の人の話す声も、風に乗って届いてきた。

けたたましく笑う声。なにか、叫んでいるような声。そうして、争うような声。


言葉は聞き取れないけれど、その声は、どれもひどくとげとげしているように聞こえた。

笑い声すら、どこか悲鳴みたいだと思った。


そうして、ブブは、三つ目の壁も越えていく。

だけど、今度は壁のむこうには大勢の人の気配があった。


「ここで秘術を使うと、目立ってしまいそうですね。」


ふむ、とヘルバはちょっと首を傾げてから、ちょうど壁を越えようとしていたブブのほうへ、ひょいと何かを投げる仕草をした。


「な、なに?何をしたの?」


「少し、しるしを、ね?」


ヘルバは僕を見てにっこりすると、壁沿いに少しむこうを指差した。


「幸い、ここは門も近いようです。

 わたくしたちは、あちらから行きましょう。」


僕はうなずくと大急ぎで門のほうへ走った。

もしかしたらブブはまた、待っていてくれるかもしれないけど。

ブブを見失ってしまうのが怖くて、一刻も早く、この壁のちょうど裏側に回りたかった。







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