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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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市場で遠い街の戦の噂を聞いたすぐ後くらいに、この街でも、小さな争いが起こったという話しを耳にし始めた。

それも、一度だけじゃない。二度。三度…


三重の壁のあるこの街は、一番内側を旧街、その外側を新街、そのさらに外を新々街と呼んでいる。

この新々街で、最近争い事が多いらしい。

とうとう先日、その争いで、人が人を傷つけるようなこともあったそうだ。


僕らだって、意見が食い違うこともあるし、そういうときには言い争いになったりもする。

だけど、人が人を故意に傷つけるようなことはしない。

それは、なんというか、踏み越えてはいけない壁のようなものだ。


僕ら、新々街は、この街に着いたばかりのときに、一度通ったきりで、その後は、足を踏み入れたことはなかった。

ピサンリによると、この街は最初、旧街の辺りにだけ家があって、それが、少しずつ人が増えるに連れて、新街、新々街ができあがっていったそうだ。


新街、新々街は、旧街の家から独立して家を作った人たちや、余所から移ってきた人たちが多い。

特に、新々街は、新しい街だから、元気な人たちが多くて、活気のある場所なんだって聞かされていた。

だけど、活気もあり過ぎて喧嘩になったら、それはよくないねえ。


たった一度通り過ぎただけだけど、新々街の賑やかさはなんとなく覚えている。

流石に大きな街だなって思ったもんだけど、ヘルバの木の家のある旧街の辺りは、それほどでもなくて、もうずっとここで暮らしていたから、こんなものかという感覚になっていた。


僕らはあんまり行かなくても、街の人たちは、街の間を普通に行き来していたし、市場で売っている物は新々街や新街を通って、その外から持ってくるわけだから、僕らにとってもまったく関係のない場所というわけでもない。

遠い街の戦じゃない。

それはもうすぐ身近な場所で起こったことだった。


帰って、夕飯のときに、その話題になった。

ルクスは眉をひそめて僕を見た。


「お前、ひとりで出歩くなよ?」


「問題ない。

 わしがいつも一緒におる。」


ピサンリがすぐさまそう言った。

なんか、ふたりしてそんなこと言うなんて。

僕、そんなに頼りないかなあ。


もっとも、何も言われなくったって、そもそもひとりで街を歩こうなんて思わないけど。


「君は、ときどき、ふらっと、突拍子もないことをしでかすからな。」


アルテミシアまで!

僕って、そんな印象だったの?


「どうしても行かなければならないときには、誰かに声をかけてくださいね?」


ヘルバにまで言われてしまった。


なんだか自分だけ子ども扱いされてるみたいで、ちょっとだけ拗ねた気分になる。

もっとも、僕はルクスみたいに、すぐに誰とでも親しくなれるわけでもないし、平原の言葉だって分からない。

アルテミシアみたいに、なんでもさらりとこなせるタイプでもない。

早く、こういうときに心配されない僕になりたいもんだけど。

今はまだ、修行中、だから、心配されても仕方ないのか。


夕飯の後、ヘルバはよく、家の前のベンチに座って、ひとりでエールを飲んでいた。

ここ、前は椅子も何もなかったんだけど、いつの間にか、ルクスがヘルバのためにベンチを拵えたんだ。

もっとも、元々ヘルバの寝室だった二階は、すっかりルクスが占領してるんだから、その罪滅ぼしもあったのかもしれない。


器用にカーブをつけた背もたれもつけてあって、なかなか座り心地のいい椅子だった。

そこに、ピサンリは、ふかふかの座布団も作ってくれて、すっかりヘルバのお気に入りの場所になっていた。


ヘルバは、街の人たちとあまり親しくしようとはしないし、昼間は家から滅多に外に出ないんだけど。

夜になると、このベンチに腰掛けて、ぼんやりしていることが多かった。

ものすごく頭をよく使うヘルバには、こんなふうにぼんやりする時間もすごく大事なんだ、って、ピサンリは言ってた。


前は、二階の部屋にたったひとつだけある窓から、外を眺めていたんだそうだ。

木の家は、そこ以外には、外の見えるところはなかった。


僕はピサンリに頼まれて、食後の果物をヘルバのところへ持って行った。

ヘルバは以前よりはちゃんと食事もとるようになったけど、あんまりたくさんは食べない。

食後の果物は、少し時間を置いて、エールを飲んでいるときに持って行くと、食べてくれるんだ。


果物はヘルバの食べる分にしては量も多くて、フォークもふたつ、付けてあった。

これって、僕も一緒に食べろってことかな?

夕飯のとき、僕がちょっと拗ねてたのに、気づかれてたのかもしれない。

僕の分は食後にもう、いただいたんだけど。

果物は大好物だから、いくらでも入っちゃう。

もらっちゃっても、いいのかな?


僕が行くと、ヘルバはちょっとベンチの端にずれて、僕の座る場所をあけてくれた。

僕はそこへ座らせてもらった。

ヘルバのベンチは、ヘルバの大事な居場所なんだけど、今日はちょっとお邪魔してもいいかな?


外の風は心地よくて、今夜は晴れて、月も明るい。

石ばかりの平原の街は、昼間はすっごく眩しいから。

なんとなく、こんなふうに夜にぼんやりするのも悪くないって思う。

それに、なにより、このベンチの座り心地は最高だった。


ヘルバの木の家は、すごく居心地はいいんだけど、やっぱり一日中家の中にだけいると、息が詰まる感じもする。

勝手に外に行っちゃダメなんて、言われなくても行かないけど、ダメ、って言われること事態、それはそれで、また息の詰まることなんだよね。


僕の差し出したお皿から、ヘルバは黙って果物を一切れ取った。

少しずつ、ゆっくりとかじっている。

あんなにゆっくり食べてたら、お皿の果物全部食べる前に、夜が明けちゃうんじゃないかって思うくらい。

もう一度お皿を見て、どうしようかなって思ったけど、フォークもふたつあることだし、遠慮なく、僕も食べることにした。


切り分けてある一切れをフォークにさして口に入れたら、さくっとした歯ごたえと、しゅわっと口いっぱいになる甘くていい匂いの果汁。

うん。なんて、幸せなんだろう。


森にも果物はあったけど、街には、もっとそれ以上、いろんな種類の果物があって、おまけに、実も大きくてすごく甘い。

ヘルバは森にはエールがないって言ってたらしいけど、僕も果物だけは、森より平原のほうがいい、って思うな。


せっかくだし、ブブにも果物を分けてあげよう。

祓い虫のブブは、本当は白枯虫を食べるんだろうけど、普通に、果物も食べる。


僕がブブに果物をおすそ分けしていたら、ヘルバがいつの間にかじっとこっちを見ていた。


「その虫は、ハライムシ、と言いましたっけ?」


「ええ…

 っても、それは僕らが勝手にそう呼んでいるだけで、本当は違う名前かもしれないけど…」


だけど、この虫の本当の名前なんて、いったい誰が知ってるんだろう。


ヘルバは、ブブをもっとよく見るように、こっちに顔を近づけてきた。

だから僕はブブを指先にのせて、ヘルバのほうへ近づけた。


するとヘルバは、恐る恐る、僕の真似をして指を立てると、ブブの前に差し出した。

ブブはしばらくヘルバの指の匂いを確かめるようにしてから、ゆっくりと、その指に移った。


ひゅっと音をさせて、ヘルバは息を呑む。

嬉しくて思わず叫びそうになったんだなって思う。

だけど、叫んだら、ブブはびっくりして逃げちゃうかもしれないから。

だから、必死に堪えたんだ。


ヘルバは息を止めたまま、ゆっくりとブブの持った指を自分の目の前に持っていった。

ちょっと、目が寄っちゃってる。

そのくらいじっと、ブブを観察してるんだ。


僕はあんなふうにまじまじとブブを見たことはなかったな。

なんとなく、いつもブローチみたいになって、僕の胸でじっとしてるんだけど。

どんな顔してるんだとか、細かいことはあまり知らないって、今さら思った。


と。そのときだった。

大きな月に照らされて、シルエットになっていたブブが、突然、ぶぶぶぶぶ、って音をさせて、羽をひらいた。


あっと、思う暇もなかった。

ブブはヘルバの指先から飛び上がって、そのまま、どこかへ飛んでいく。


慌てたヘルバは、ブブを両手で捕まえようとして、その瞬間、ちょっと躊躇った。

多分、力一杯握りしめたら、ブブをつぶしてしまうって、踏みとどまったんだと思う。

その間に、ブブは、ヘルバの手をすり抜けて、そのまま飛び去っていった。


「あ。あ。あああ…」


ヘルバはふらふらとブブを追いかけていく。

僕も慌てて、そのヘルバを追いかけた。


ほんの一瞬だけ、夕食のとき、僕を心配そうに見ていたみんなの顔が、頭の片隅を過ぎった。

だけど、目の前のヘルバの背中を見て思った。

ひとりじゃないし。

大丈夫だよね。













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