132
市場で遠い街の戦の噂を聞いたすぐ後くらいに、この街でも、小さな争いが起こったという話しを耳にし始めた。
それも、一度だけじゃない。二度。三度…
三重の壁のあるこの街は、一番内側を旧街、その外側を新街、そのさらに外を新々街と呼んでいる。
この新々街で、最近争い事が多いらしい。
とうとう先日、その争いで、人が人を傷つけるようなこともあったそうだ。
僕らだって、意見が食い違うこともあるし、そういうときには言い争いになったりもする。
だけど、人が人を故意に傷つけるようなことはしない。
それは、なんというか、踏み越えてはいけない壁のようなものだ。
僕ら、新々街は、この街に着いたばかりのときに、一度通ったきりで、その後は、足を踏み入れたことはなかった。
ピサンリによると、この街は最初、旧街の辺りにだけ家があって、それが、少しずつ人が増えるに連れて、新街、新々街ができあがっていったそうだ。
新街、新々街は、旧街の家から独立して家を作った人たちや、余所から移ってきた人たちが多い。
特に、新々街は、新しい街だから、元気な人たちが多くて、活気のある場所なんだって聞かされていた。
だけど、活気もあり過ぎて喧嘩になったら、それはよくないねえ。
たった一度通り過ぎただけだけど、新々街の賑やかさはなんとなく覚えている。
流石に大きな街だなって思ったもんだけど、ヘルバの木の家のある旧街の辺りは、それほどでもなくて、もうずっとここで暮らしていたから、こんなものかという感覚になっていた。
僕らはあんまり行かなくても、街の人たちは、街の間を普通に行き来していたし、市場で売っている物は新々街や新街を通って、その外から持ってくるわけだから、僕らにとってもまったく関係のない場所というわけでもない。
遠い街の戦じゃない。
それはもうすぐ身近な場所で起こったことだった。
帰って、夕飯のときに、その話題になった。
ルクスは眉をひそめて僕を見た。
「お前、ひとりで出歩くなよ?」
「問題ない。
わしがいつも一緒におる。」
ピサンリがすぐさまそう言った。
なんか、ふたりしてそんなこと言うなんて。
僕、そんなに頼りないかなあ。
もっとも、何も言われなくったって、そもそもひとりで街を歩こうなんて思わないけど。
「君は、ときどき、ふらっと、突拍子もないことをしでかすからな。」
アルテミシアまで!
僕って、そんな印象だったの?
「どうしても行かなければならないときには、誰かに声をかけてくださいね?」
ヘルバにまで言われてしまった。
なんだか自分だけ子ども扱いされてるみたいで、ちょっとだけ拗ねた気分になる。
もっとも、僕はルクスみたいに、すぐに誰とでも親しくなれるわけでもないし、平原の言葉だって分からない。
アルテミシアみたいに、なんでもさらりとこなせるタイプでもない。
早く、こういうときに心配されない僕になりたいもんだけど。
今はまだ、修行中、だから、心配されても仕方ないのか。
夕飯の後、ヘルバはよく、家の前のベンチに座って、ひとりでエールを飲んでいた。
ここ、前は椅子も何もなかったんだけど、いつの間にか、ルクスがヘルバのためにベンチを拵えたんだ。
もっとも、元々ヘルバの寝室だった二階は、すっかりルクスが占領してるんだから、その罪滅ぼしもあったのかもしれない。
器用にカーブをつけた背もたれもつけてあって、なかなか座り心地のいい椅子だった。
そこに、ピサンリは、ふかふかの座布団も作ってくれて、すっかりヘルバのお気に入りの場所になっていた。
ヘルバは、街の人たちとあまり親しくしようとはしないし、昼間は家から滅多に外に出ないんだけど。
夜になると、このベンチに腰掛けて、ぼんやりしていることが多かった。
ものすごく頭をよく使うヘルバには、こんなふうにぼんやりする時間もすごく大事なんだ、って、ピサンリは言ってた。
前は、二階の部屋にたったひとつだけある窓から、外を眺めていたんだそうだ。
木の家は、そこ以外には、外の見えるところはなかった。
僕はピサンリに頼まれて、食後の果物をヘルバのところへ持って行った。
ヘルバは以前よりはちゃんと食事もとるようになったけど、あんまりたくさんは食べない。
食後の果物は、少し時間を置いて、エールを飲んでいるときに持って行くと、食べてくれるんだ。
果物はヘルバの食べる分にしては量も多くて、フォークもふたつ、付けてあった。
これって、僕も一緒に食べろってことかな?
夕飯のとき、僕がちょっと拗ねてたのに、気づかれてたのかもしれない。
僕の分は食後にもう、いただいたんだけど。
果物は大好物だから、いくらでも入っちゃう。
もらっちゃっても、いいのかな?
僕が行くと、ヘルバはちょっとベンチの端にずれて、僕の座る場所をあけてくれた。
僕はそこへ座らせてもらった。
ヘルバのベンチは、ヘルバの大事な居場所なんだけど、今日はちょっとお邪魔してもいいかな?
外の風は心地よくて、今夜は晴れて、月も明るい。
石ばかりの平原の街は、昼間はすっごく眩しいから。
なんとなく、こんなふうに夜にぼんやりするのも悪くないって思う。
それに、なにより、このベンチの座り心地は最高だった。
ヘルバの木の家は、すごく居心地はいいんだけど、やっぱり一日中家の中にだけいると、息が詰まる感じもする。
勝手に外に行っちゃダメなんて、言われなくても行かないけど、ダメ、って言われること事態、それはそれで、また息の詰まることなんだよね。
僕の差し出したお皿から、ヘルバは黙って果物を一切れ取った。
少しずつ、ゆっくりとかじっている。
あんなにゆっくり食べてたら、お皿の果物全部食べる前に、夜が明けちゃうんじゃないかって思うくらい。
もう一度お皿を見て、どうしようかなって思ったけど、フォークもふたつあることだし、遠慮なく、僕も食べることにした。
切り分けてある一切れをフォークにさして口に入れたら、さくっとした歯ごたえと、しゅわっと口いっぱいになる甘くていい匂いの果汁。
うん。なんて、幸せなんだろう。
森にも果物はあったけど、街には、もっとそれ以上、いろんな種類の果物があって、おまけに、実も大きくてすごく甘い。
ヘルバは森にはエールがないって言ってたらしいけど、僕も果物だけは、森より平原のほうがいい、って思うな。
せっかくだし、ブブにも果物を分けてあげよう。
祓い虫のブブは、本当は白枯虫を食べるんだろうけど、普通に、果物も食べる。
僕がブブに果物をおすそ分けしていたら、ヘルバがいつの間にかじっとこっちを見ていた。
「その虫は、ハライムシ、と言いましたっけ?」
「ええ…
っても、それは僕らが勝手にそう呼んでいるだけで、本当は違う名前かもしれないけど…」
だけど、この虫の本当の名前なんて、いったい誰が知ってるんだろう。
ヘルバは、ブブをもっとよく見るように、こっちに顔を近づけてきた。
だから僕はブブを指先にのせて、ヘルバのほうへ近づけた。
するとヘルバは、恐る恐る、僕の真似をして指を立てると、ブブの前に差し出した。
ブブはしばらくヘルバの指の匂いを確かめるようにしてから、ゆっくりと、その指に移った。
ひゅっと音をさせて、ヘルバは息を呑む。
嬉しくて思わず叫びそうになったんだなって思う。
だけど、叫んだら、ブブはびっくりして逃げちゃうかもしれないから。
だから、必死に堪えたんだ。
ヘルバは息を止めたまま、ゆっくりとブブの持った指を自分の目の前に持っていった。
ちょっと、目が寄っちゃってる。
そのくらいじっと、ブブを観察してるんだ。
僕はあんなふうにまじまじとブブを見たことはなかったな。
なんとなく、いつもブローチみたいになって、僕の胸でじっとしてるんだけど。
どんな顔してるんだとか、細かいことはあまり知らないって、今さら思った。
と。そのときだった。
大きな月に照らされて、シルエットになっていたブブが、突然、ぶぶぶぶぶ、って音をさせて、羽をひらいた。
あっと、思う暇もなかった。
ブブはヘルバの指先から飛び上がって、そのまま、どこかへ飛んでいく。
慌てたヘルバは、ブブを両手で捕まえようとして、その瞬間、ちょっと躊躇った。
多分、力一杯握りしめたら、ブブをつぶしてしまうって、踏みとどまったんだと思う。
その間に、ブブは、ヘルバの手をすり抜けて、そのまま飛び去っていった。
「あ。あ。あああ…」
ヘルバはふらふらとブブを追いかけていく。
僕も慌てて、そのヘルバを追いかけた。
ほんの一瞬だけ、夕食のとき、僕を心配そうに見ていたみんなの顔が、頭の片隅を過ぎった。
だけど、目の前のヘルバの背中を見て思った。
ひとりじゃないし。
大丈夫だよね。




