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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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その噂を聞いたのは、ピサンリと買い物に出かけた市場だった。


あれから、ピサンリは、ヘルバにおつかいを頼むのはやめた。

というより、今はヘルバは片付いた家で、実験をしたり、ルクスたちと紋章のことを話し合ったりで忙しかったから、買い物は、ピサンリと僕で行くことが多くなっていた。


ピサンリにはいくつか、お気に入りの行きつけのお店があって、いつもピサンリにくっついていく僕も、すっかり顔なじみになっていた。

なかには片言の森の民の言葉を話してくれる人もいたりして、軽い挨拶程度なら、僕もお店の人たちと言葉を交わすようになっていた。


街の人たちはよく僕らにヘルバのことを尋ねてきた。

ヘルバは、ここの街の人たちにはセンセイと呼ばれていて、すごく慕われているみたいだった。

ピサンリの話しだと、誰も近づかない変わり者、みたいな印象だったから、まあ、街に棲んでる森の民だなんて、僕らからしても、変わり者には違いなかったけど、ここじゃ思ったより人気者なんだなって感じた。


人々は、ヘルバに食べさせてほしい、と言って、よく食材をくれた。

ピサンリがいるんなら料理もするだろう、って、いつも食べきれないくらい持たされた。

ヘルバが、まったく料理ができないってのは、周知の事実らしい。

ピサンリがいない間は、ほとんど、エールだけ、飲んでいたみたいだ。


ヘルバのことを心配して、街の人たちは、エールをよく届けてくれていたようだ。

ヘルバのエール好きもかなり知れ渡っているみたい。

でも、ヘルバは、誰とも会いたがらないから、いっつも木の家の扉の前に置いておくんだって。

そうしたら、翌朝にはなくなっているんだそうだ。

エール以外の食材も最初のころは届けてくれてたらしいんだけど。

きれいにエール以外には手をつけないから。

それで、エールだけ持って行くようになったんだって。


ピサンリが旅に出てから、ヘルバはすっかり木の家から外に出なくなっていたらしい。

年に二回。夏至祭りと冬至祭りの日だけ外に出て、あの、きれいな水のショーをやってくれたんだそうだ。

あれ、街の人たちは、単なる見せ物みたいに思ってるみたいだけど。

多分、浄化の一種だと思う。


それでも、親切な街の人たちは、ヘルバのことを見捨てはしなかった。

街の人たちは、街の人たちで、先祖代々、あの森の民だけは大切にしろ、と教えられているらしい。

先祖代々言い伝えられてるなんてすごいけど、確かに、ヘルバって、実は、そのくらいお年寄りなんだよね。


だから街の人たちは、ピサンリがいなくなってすっかりふさぎこんでしまったヘルバのことも、なんとか助けようって、してくれてたんだ。

届けたエールが翌朝なくなっていたら、まだヘルバは無事な証拠って、エールはそんなふうに使われてらしい。

みんな、ヘルバのことは心配してたんだけど、木の家を尋ねても、あの扉は絶対に開かなかったんだそうだ。

よほど気落ちしてしまったんだろう、って、みんな、そっとしとくしかなかったって首を振ってた。

ピサンリが帰ってきてよかった、って、街の人たちは、すごく喜んでいた。


こんなに街の人たちから心配されてるなんて、ヘルバって、つくづく、幸せだよね。


そういうようなことも、市場に通ううちに、少しずつ、分かっていったんだ。


僕は相変わらず、平原の民と直接話すことはできなかったんだけど。

それでも、市場で言葉を耳にするうちに、ところどころ、単語くらいは、分かるようになっていった。

街の人たちに話しかけられたときには、ピサンリに通訳してもらってたけど。

街の人たちも、僕が言葉が分からない、っていうのはすぐに覚えてくれて、話しかけるときにはいつもピサンリに話しかけてくれていた。


意味が分からないと、ただの、音、でしかなかった人々の会話が、分かるようになると、少しずつ、耳にちゃんと、言葉として入って来た。


そうして、僕は気づいた。

最近、同じ言葉をよく耳にすることに。


だけど、その言葉の意味を僕は知らなかった。

だから、何気なく、ピサンリに尋ねた。


「ねえ、ピサンリ、イクサ、って何?」


ピサンリは、えっ、って顔をして僕を振り返ってから、その意味を教えてくれた。


「戦?」


それは僕らの間じゃ、滅多に使われない言葉だった。

だから、すぐにピンとこなかった。


森の民の間に、戦、というものはない。

郷同士が争うことなんて、ほとんどないんだ。

たとえ、なにか、ものすごくややこしいことが起きて、争いになったとしても。

多分、そのときには、族長同士話し合って、一番、いい解決法を見つけると思う。

郷では族長の言うことは絶対だし。

それに逆らおうなんて人はいない。

そして、余所の郷と争おうなんて族長もいないんだ。


だから、戦ってのは、どこか遠いところの平原の民が、昔やってたらしいよ、って、ものすごい曖昧な伝説でしか知らないんだ。


だけど、それは、ものすごく恐ろしいもので、その言葉は、口にするのさえ憚られる。

僕らはそんなふうに大人たちから聞かされた。

なるべく使わないから、その言葉自体を忘れてしまう。

そんな言葉だった。


その日は、ピサンリとあるスパイスを探して、市場中を歩き回っていた。

いつもの行きつけの店にも、それ以外の店にも、どこも品切れだったから。

何軒も何軒も回るうちに、店の人たちが、イクサ、という言葉を何度も繰り返すのに、僕も気づいたんだ。


そうやって気づくと、街を歩く人たちも、同じ言葉をしょっちゅう口にするのに気づいた。

だから、ピサンリに尋ねてみたんだ。


戦のせいで、街道を通れないところが何か所かあって、遠くから運ばないといけない物は、運んでこれなくなっている、お店の人たちが言っていたのは、そういうことだったみたいだ。


「どこかで、戦が起きているの?」


そう尋ねた僕の声は、ちょっと震えていた。

それは、声にするのも恐ろしい言葉だった。


ピサンリは僕を安心させるように、少しだけ笑ってみせた。


「遠い遠いところじゃ。

 うんとうんと遠いところの街と街の間で、争いが起きておる、と。」


今はまだ、のう、と、ピサンリは付け足した。

途端に、僕の体は、小さく震え始めた。


「もしかしたら、この街にも、戦、は来るの?」


それは口にしてはいけない不吉なことだった。

だけど、尋ねずにはいられなかった。


「…どうかのう…」


ピサンリは首を振った。

ピサンリにも分からない、と言いたいらしかった。


「…デンセツ…ホロビ…」


僕は、戦、以外にも街の人たちがよく口にしている単語を並べた。

ピサンリは、ますます困った顔をした。


「昔々大昔の伝説じゃ。

 たくさんの街と街の間に、諍いが起きて、次第に拡がり、やがて、すべての街がどこかの街と争う事態になった。

 そうして世界は滅びかけた。」


「それって、世界が崩壊しかけたって、あれ?」


平原の民の英雄が回避したって、って聞いたやつ。


森の民は、その前にみんな彼の地へと旅立ってしまってたから。

世界がどうなっていたのかは、あまり知られていない。

世界の崩壊の間だけ、すっぽりと記憶がなくて。

森の民の記憶は、それ以前と、それが収まって以降のしかないんだ。


僕らは文字を持たないわけじゃないんだけど、平原の民のような書物を書き記すことはあまりしない。

大切なことは言葉にして、子どもたちは大人たちから聞かされる。

だけど、僕らの聞かされてきた話しのなかには、世界の崩壊のことはほとんどなかった。

それって、多分、森の民は、その間は、彼の地にいたからじゃないかなって、僕は勝手に想像していた。


だけど。

世界の崩壊が収まった後、彼の地に旅立った森の民は、この世界に戻ってきたんだろうか。

僕らの出立のとき族長は、彼の地へは、一度立ち立てば、二度と戻ることはない、片道の旅だと言ってたけど。

もし、誰も、戻ってこなかったとしたら、今ここにいる僕らは、誰の子孫なんだろう。


そこで、種、という言葉を思い出す。

もしかしたら、僕らは、大昔の世界の崩壊のときに、種として残された森の民の子孫なのかな。

ということは、僕らは、今のこの崩壊を乗り越えた後のために、ここに残されたということなのかな。


その、種、という人たちに、僕は直接会ったことがない。

もしかしたら、その、種、という人たちなら、前回の崩壊を乗り越えた話しも聞けるかもだけど。

だけど、その、種、の人たちって、ものすごくご高齢だろうから。

やっぱり、遭うのは難しいかな…


世界の崩壊って、森が白く枯れることだと思ってた。

森が枯れるなんて、僕らにとっては本当に一大事なんだけど。

水の浄化を続けたら、そのうちなんとかなるんじゃないかな、って、希望的観測を抱きかけてた。


だけど、崩壊、ってのは、そんなに簡単なものじゃないのかもしれない。

もっと、いろんなところから、気づかない間に忍び寄ってくるものなのかも。


払っても払っても、打ち消しても打ち消しても、決して消滅しない闇みたいなものが、じわじわと僕らに迫ってくる。

そんなのを想像して、僕は背中がぞくりとした。









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