106
池に落ちたんだ、と気づいたときには、もう上も下も分からなかった。
とにかく浮かばなくちゃ、って思うんだけど。
どっちへ行けば浮かぶのか分からない。
それに、水はとても重かった。
手も足も、重すぎて、水を押し退けられない。
そのうちに、抵抗する力もなくなってきた。
目も、開けていたのか閉じていたのか分からない。
とにかく、何も見えなかった。
それって、暗かったからか、それとも、目を閉じていたからか。
それも自分では判断できなかった。
なのに。
ふっと、目の前に光が見えた。
ブブ?
何故か、すぐに分かった。
この光はブブだ。
ブブは、僕の胸にとまっていて、一緒に落ちてしまったんだ。
祓い虫って、水に落ちても、大丈夫なのかな?
ブブの光は、まるでなにか合図をするかのように、明滅していた。
ふわり、ふわり、と音でもしそうな明滅を見ていたら、ふ、っと、我に返った。
ダメだ。息、しなくちゃ。
そのときだった。
僕の顔の真ん前にふわっと浮かんだブブは、ふっ、と僕に息を吹きかけた。
よくそんなの見えたなって、思う。
うん。
あんなに暗かったし。
それに、ブブはとっても小さいのに。
でも、確かに、ブブは、そうしたんだ。
その途端、息が全然苦しくなくなった。
不思議なくらい。
僕って、もしかしたら、水の中でも息ができたのかな、って思ったくらい。
よくよく見ると、僕は大きな大きな泡の中に入っていた。
まさか、この泡って、ブブが作ったの?
まさかね。
こんなに大きな泡になるくらいたくさんの空気を吐くなんて、流石にあの小さなブブにはムリだ。
と、冷静に考えれば思うんだけど。
そのときは何故か、僕は、その泡はブブが作ったんだ、って信じて疑わなかった。
ブブは泡の外にいて、じぃっとこっちを見ていた。
それはまるで、パニックを起こしかけていた僕が、落ち着くのを待っているみたいだった。
僕が落ち着いたのを確認すると、ブブは、ふわふわと飛び、いや、ここは水中だから、泳ぎ?始めた。
とっさについて行こうとすると、体重をかけた方に泡が動いた。
これは便利だ。
進みたい方へ重さをかけると、ゆっくりと泡が曲がる。
ぐっと力を込めると、そっちへ進むスピードが増す。
ゆっくり進みたければ、力を抜けばいい。
止まりたくなったら、真下に力をかければよかった。
しばらく操作の練習をしながら、ブブについて行った。
ブブは僕が練習しているのに気づいていたのか、ときどきこっちを振り返って待っていてくれた。
僕らはゆっくりと螺旋を描きながら池の底深くへと潜っていった。
あの池って、こんなに深かったんだ。
池自体が井戸みたいに深いと感じた。
深く深く潜っていくと、辺りは次第に明るくなってきた。
不思議だなあ。
今は外は夜だし、これは外から届いた光じゃないと思う。
だとすると、この光の源は、ここにあるってことか。
僕はうんとうんと目を凝らして、この光はどこから来るんだろう、って探した。
うん。やっぱり、池の底から光ってる。
池の底には、いったい何があるんだろう。
潜るにつれて、それが見えてくる。
それは、こんなの見たことないってくらい、大量のエエルの石だった。
小さいころ、御伽噺で聞いた、金銀財宝の沈む湖みたいに、そこには大量のエエルの石があった。
やっぱりここでは大量の白枯虫が何度も何度も浄化されて、そうして、あのエエルの石に変わったんだと思った。
泡に包まれた僕には、すぐ近くにエエルの石が見えていても、それを拾うことは不可能だけれど。
エエルの石は水の中できらきらと光り輝いていた。
世界にはエエルが足りないらしいけど。
こんなところにたくさんあるんだなあって思った。
ずっとエエルの石に気を取られていたんだけど。
突然、水面のほうから、何か明るい光が落ちてきた。
水中なのに、それは素晴らしい速さで、真っ直ぐ、こっち目掛けて落ちてくる。
揺らぎも迷いもなく、ただ真っ直ぐに。
と、思ったときだった。
ぱあっ、と僕を取り囲む周りの水が、光を放った。
まるで、あの落ちてきた小さな光に呼応するように、大きな大きな光の玉になった。
僕は、光の玉の内部にすっぽりと覆われて、ただひたすら眩しかった。
どっちをむいても、たとえ目を閉じても、光からは逃げられない。
眩しい眩しい光のなかだ。
もしかして、僕の周りは、白枯虫に取り囲まれていたのかもしれない。
というか、僕の入った泡は、白枯虫の群れのど真ん中に、入り込んでしまってたんだ。
いやいや、さらに言えば、池の水、だと思ってたもの全体が、実は白枯虫だったのかな。
え?じゃあ、白枯虫って、水なの?
あんまり眩しくて、いきなり光ったのにびっくりして、ちょっと混乱してたかも。
白枯虫は、水そのものじゃなくて、水に溶ける、というか、水に紛れて見えないくらい小さな虫なのかもしれない。
それが、溜め池の水のなかに、びっしりといて、そして、一斉に光ったのかも。
暗かったし、月もなかったし、流石に夜目が効くと言っても、水の中の小さな虫までは見えなかった。
だから、突然、一斉に光って、びっくりしたんだ。
けれど、白枯虫が光ると、祓い虫が来る。
ふわりと、まるで黒い布でも被せられたみたいに、周りの光は薄れて、掻き消えた。
その一部始終を、僕は泡の中からまじまじと見ていた。
こんなに間近にそれを見たのは初めてだった。
ふわりとかけられた黒い布、の正体は祓い虫。
祓い虫は、一匹一匹が、しっかりと目に見える大きさだ。
祓い虫たちは、もぐもぐと口を動かして、なにかをせっせと食べている。
すると虫一匹一匹の周りの光が、少しずつ、薄れていく。
やっぱり白枯虫の姿は見えなくて、祓い虫は光そのものを食べているようにも見える。
そうして、だいたい自分の周りの光を全部食べつくしたかな、という辺りで、一瞬、祓い虫が光った。
と思うと、小さなエエルの塊になって、ゆっくりと水に沈んでいった。
そっか。エエルの石の正体は、白枯虫を食べた祓い虫だったんだ。
石になるともう、虫の形はしてないけど。
それは多分、祓い虫が姿を変えたものだった。
そうだ!ブブ!
僕は不安になって、辺りを見回した。
辺りには祓い虫はもうずいぶん少なくなって、白枯虫の光も、もうほとんどない。
ブブも仲間たちと同じように、白枯虫を食べて、エエルの石になってしまったのかな。
僕はよろよろと泡のなかに座り込んだ。
それが祓い虫というものだ、と言われれば、そうなんだけど。
それでも、僕にとってのブブは、ただの祓い虫じゃなくて、特別な存在だから。
だけど、どうすることも、できないんだ。
この世界には、何かを強く思っても、どうすることもできない、ってことが多すぎる。
僕はため息を吐いて、それから、笛を取り出した。
ここなら、大きな音を出しても、きっと、誰にも聞こえない。
ひとつ、深呼吸をしてから、吹き始めた。
ブブの一番好きな歌。
陽気で、楽し気で、よく食後に吹いていた歌を。