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灯りは、ふわっ、と浮かんで飛び始めた。
とても小さくて、ほんのり白い。
僕は急いで灯りを追いかけた。
生い茂る草のなかで、小さな灯りを見失わないようにするのは、なかなかに大変だった。
ほんのちょっとした陰に入ってしまっただけで、もう分からなくなる。
わずかな角度の違い程度でも、葉っぱの陰に紛れてしまって、何度も見失いそうになった。
けれど、灯りは僕が見失うたびに、その場所にじっとしていてくれた。
まるでそれは、待っていてくれてる、みたいでもあった。
ブブも、そうだったけど、虫ってやっぱり何を考えているのか分からない。
ものすごく何か、真理みたいなものを分かっているように感じることもある。
でも、何にも考えてない、みたいに思うときもある。
あれって、白枯虫かなあ?
虫を追いかけながら、僕はそんなことを考えていた。
前に見たときは、もっとたくさん、森中を埋め尽くすくらいにいたから。
なんだか、あんなにポツリとしてると、同じ虫とは思えない。
ブブも光って道を案内してくれたことあったけど。
あれとは、光り方が違うような気もする。
霊格が高いからブブは光ったりできるんだ、っておっちゃんは言ってたけど。
だったら、白枯虫ってのは、結構、霊格が高いのかな。
森を枯らす、病気を運ぶ虫、って印象しかないけど。
音もなくふわふわと飛ぶ虫を追いかけていると、なんだか夢の中で走っているみたいだった。
どこか、現実の世界じゃない感じがする。
風とか、足音とか、しているはずなんだけど。
聞こえているのは、さわさわという葉擦れの音だけになる。
そして、それはいきなり、ぱっと、目の前に開けた。
突然開けた場所に出たから、本当に本当にびっくりした。
後から思えば、あんなところに突っ立って、誰かに見られたらまずかったかもなんだけど。
そのときは、そんなことすら気づかずに、ただただ、目の前が開けたことに驚いていた。
ここは…溜め池か?
実際の場所を自分の目で見たことはなかったけど。
おっちゃんから話しは聞いていた。
大きな井戸があって、そこから汲み上げた水はいったん溜め池みたいなところに溜められてから、用水路を使って畑中に行き渡らせてるんだ、って。
井戸と言っても、想像したのとは全然違う。
釣瓶とか、桶とかもない。
大きな板みたいなのが地面に固定してあって、その板には斜めに太い螺旋の柱が突き刺さってる。
柱には持ち手みたいなものもついていた。
棒の下には水路みたいな窪みもあるんだけど。
今はそこには水はない。
これ全部、何に使う道具なのかはまったく分からないんだけど、なんだかすごい、という気だけはした。
溜め池には黒々とした水がたっぷり溜まっていた。
と、そこへ、ぽちゃん、と白い光が飛び込んだ。
びっくりした。
虫って、水に飛び込んでも大丈夫なの?
いや、そうか。あれは白枯虫?なんだし。
水脈を通って遠くへ拡がってるくらいなんだから。
水に入るくらい大丈夫、なんだよね?
そんなことを思った一瞬後。
ふわっ、と目の前の溜め池全体が光った。
すごい。
まさか、これ全部、白枯虫?
それは、森のなかで光っていたのの比じゃなかった。
黒い水が、まるで、小さなお日様みたいに光っている。
虫一匹一匹の姿なんて、まったく見えやしない。
とにかく、大きな大きな光の塊だ。
眩しさに耐えきれなくて、思わず、目を逸らせた。
影を作るように掌を差し上げて、指の隙間から、そっと様子を伺った。
溜め池は、まるで水じゃなくて光を溜めているようだった。
光って、溜められるのかは知らないけど。
それはとてつもなく大きくて、眩しい光だった。
ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、…
白枯虫のいるところには、必ず、祓い虫も現れる。
その音が聞こえたのはすぐだった。
それもいったいどこに隠れていたんだろうってくらいの大群だった。
それは、夜の闇よりも、なお濃い闇の塊に見えた。
ぽちゃんぽちゃんぽちゃんぽちゃん…
祓い虫たちはものすごい勢いで、池のなかに飛び込んでいく。
まるでそれは池に降り注ぐ雨のようだ。
それも特大級の夏の夕立みたいな激しい雨。
そうして、池のなかの光は、あっという間に掻き消されてしまった。
これは、浄化、完了、ってやつ?
あのとんでもない密度の白枯虫も、今は一匹も見えない。
そして、祓い虫も。
あの光も、それからそれを打ち消す雲も。
どっちも幻だったのかと思うくらいに、一瞬でいなくなっていた。
そのときだった。
おおーい、という声がして、むこうのほうから、畑の間の通路を駆けてくる人影が見えた。
一瞬、おっちゃんかな?って思ったんだけど、この声は違う。
もしかしたら、町の人?ってちょっとびびったけど。
そのとき、その人の顔が見えて、僕はほっとした。
「ピサンリ!」
「いやあ、この虫が、わしを呼びに来よってのう?
最初は気づかんかったんじゃが、あんまり、ぶんぶん、頭の周りを回るもんで。
これはきっと、何か言いたいことがあるに違いないと思うて。
どうなさった?と聞いた途端に、どこかへむかって、飛び始めたのじゃ。
あわててついてきたら、ここへ連れてこられとった。」
そっか。
ブブ、迷子になった僕のために、ピサンリを呼んできてくれたんだ。
ブブは、まるで有難うを言うように、ピサンリの頭の周りを一周してから、僕の胸のいつもの定位置に止った。
なんだか、君がここにいると、ほっとするよ。
僕は、そっとそっとピサンリの鼻先に指を当てる。
ピサンリは、嫌がっているのか喜んでいるのか、相変わらずの無反応だった。
「さっき、こちらのほうから、なにやら、眩しい光?が見えたのじゃが?」
ピサンリは僕にそう尋ねた。
「あ。うん。
この池いっぱいに、白枯虫?がいて、すごく光ってたんだ。」
白枯虫、というのは、はっきり形を知っているわけじゃないから、断言はできないんだけど。
多分、そうだと思う。
ピサンリは背伸びをして、僕の指差した池のほうを眺めた。
「今は光っておらんのう?」
「祓い虫たちが水に飛び込んだら、白枯虫も消えちゃったんだ。」
ほう、とピサンリはもう一度池を眺めた。
「あの逃亡者殿も言うておったの。
溜め池の水を浄化、するとかなんとか。」
「そうやって、畑に白枯虫を広げないようにしてた、って。言ってた。」
僕も頷いて、もう一度、溜め池のほうを見た。
溜め池からは用水路が流れ出すようになっているけど、今は板で仕切られて、水が流れていかないようにしてある。
「朝になって、井戸が動き出すと、その板を外して、畑中に水が行き渡るようにするのじゃ。」
僕の見ているものに気づいて、ピサンリは教えてくれた。
「なかなかようできておる仕組みじゃよ。」
ピサンリは感心したように頷いた。
じゃあ、朝になって畑に水が行き渡る前に、祓い虫たちは白枯虫たちを浄化してたんだろうか。
僕は恐る恐る溜め池を覗き込んだ。
どっちかの虫が一匹でも残ってないかな、って思ったんだ。
黒々とした溜め池は、深さも分からなくて、ちょっと怖い。
落ちたら嫌だなって思いながら、底のほうまでずっと覗き込む。
と、ふと、なにか、きらっと水の底で光った気がした。
「あ。あれ?
なんだろう、あれ。」
僕はそのきらっとのほうへ手を伸ばした。
とぷん、と手が水に浸かって、ひやっとした感覚がある。
すぐ近く。手を伸ばせば届きそうなところで、きらきら光ってる何かがある。
あれは、エエルの石っぽいな。
そっか、ここにも、エエルの石はいっぱい落ちているのかも。
もうちょい。
もう、ちょっと。
思い切って手を伸ばしたときだった。
ぽちゃん。
どぼん。
突然、くるりと世界は反転して、僕の周りはぼこぼこという音だけに満ちていた。